Festina Lente2

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喜びよりも悲しみ

新聞の見出しのように、誰にでも知ってもらいたい記事。
第一面、トップの記事。そういうものを書く訳では無いブログ。
自分の為に書いている部分が大きいから、それもよし。
何故なら、話題沸騰の記事に対してコメントするのが何故か憚られる。
誰でも話題にしていることを、良しにつけ悪しきにつけ
書くことに気後れしてしまう私。だから、大きな事件があったり、
何かびっくり仰天するようなことがあったりすると、
世間で話題になっているニュースについて、
意見・感想・コメントするというのが苦手。
最近そういう傾向が強くなって来たのは何故かな。


話題の映画、話題の音楽、話題の・・・。
誰もがそう思う、そう感じる、その中で自分は・・・。
誰かとの差異、そういうものを気にするには少々歳を取って、
あつかましいおばちゃん世代にとっくに突入しているにもかかわらず、
美しい花、きれいな景色、感嘆の声を心の中であげているのに、
それをいちいち伝えたり、表現したりすることにためらい。
共感? いや違う、そうではなくて誰もが思うこと。
それをあえて自分が書き記したり、残したり、
日記だから構わないのではないかと思いつつ、
共有する空間にわざわざ書いているのだからとも思いつつ、
ためらいが、抵抗があるのは何故かな。


喜びよりも悲しみに目が行くような、そんな自分を
人が大騒ぎすればするほど醒めていくような、
何かが近づいてくれば思わず距離を取るような、
仕事をすればするほど充実感よりも別の感情にとらわれたり、
試験の時ほど遊びたくなるような子どもっぽい感情に良く似た、
天邪鬼なのだろうか、素直にその場の雰囲気や空気に馴染めない、
あれ?という違和感に目がいく、とらわれる、気になる。
そんな自分を持て余しながらも、周囲の流れに巻き込まれることに、
その場を味わうことに、「疲れ」や「遠慮」が先に来てしまう。
どうしてそういうふうに「揺れてしまう」のかな。


何か大きな衝撃から自分を守ろうとしているのか、
何か自分が触れたくないものがあるのか、
人に物に何かに近づこうと思えば思うほど、
拒絶された時のことを恐れるように、
失敗した時の恐怖や苦痛を迂回する方向に思わず動くのか。
良かったねと思うことも日常生活の中で多々あるのに、
そう言えない出来事や気持ちの方に心が向くのは、
根暗? いや、そんなふうに単純に言ってしまえるものじゃないのだけれど。


明るければ明るいほど、楽しければ楽しいほど、その後のことを心配する。
予期不安の中で常にどぎまぎする自分を、かといって、
思いっきり巣ぼらな自分自身がサボりにサボってサボり倒して、
期限ぎりぎりのやっつけ仕事の状況に自分を追い込み、
あろうことかなかろうかの手抜きじゃないかと思いながら、
駄々漏れで仕事をしている。そんな自分に歯噛みをしながら。
このギャップは何だろうね。
どうにもこうにも、性格で片付けていいものか。

ドヴォルザーク:スターバト・マーテル

ドヴォルザーク:スターバト・マーテル

望郷のバラード(ピアノ伴奏版)

望郷のバラード(ピアノ伴奏版)


というわけで、世間で話題になっている盲目のピアニストの話題に
その快挙に興味津々であっても、紙面に踊る祝福への共感があっても、
それを言葉にする、文字にして読むような行為にするのは難しい。
「すごい! 立派だね。努力家、天才、さすが」
「こういう人も居るんだ」「どんな音楽、どんな音色?」
こんなふうに口に出して言うのは簡単なんだけれどね。


だからそんな私が一つ躓くと、なかなか日記に文章を起こすのが難しい。
書いては消しだったり、書くのを途中で諦めてしまったり、
この頃は書きかけで文章を消してしまうミスが増えたけれど、
無意識のうちに消してしまう何かが働いているのだろうな、
自分の中にそういうストッパーが居て、
もう書く事にうんざりしているのかも。
でも、もう1人の自分が、「止めるのはいつでも出来るから」と
何度も背中を押すので書いている。書いてみる。そんな毎日。
・・・この、もう1人の自分も何時までそう言えるだろう。


というわけで、本日私が心惹かれた話題はミツバチの話。
本日の読売新聞「緩話急題」吉田満穂氏の「西洋ミツバチの悲しみ」。
それによると、
−−−今春のセイヨウミツバチ不足について
「女王蜂の輸入禁止」「ダニ被害」「カメムシ駆除剤」の3原因。
注目すべきは「失踪」。ダニなら死骸が残るはずなのにない。
これは全米の36%が消えた「群崩壊症」に似る。
「死の謎、死体は何処へ、犯人は」推理小説的要素がある現象。


スペインの古い洞窟には蜂蜜を採取する壁画がある。
イスラエルの紀元前9世紀の遺跡から養蜂跡が発見された。
日本でも平安時代には「蜂飼大臣(はちかいのおおど)」と呼ばれた公家の逸話が今鏡に残っている。登場するのが「ニホンミツバチ」。セイヨウミツバチとは性格も生き方も異なる。
仕事は雨が降ると休むのが「セイヨウ」なら、
少々の雨なら出掛けていくのが「ニホン」。−−−


このように比較すると
西洋ミツバチ・・・ススメバチに襲われれば、一匹ずつ対決して全滅するまでやめない。
       一つの花に執着するので、蜜の種類分けが出来る。
       ダニに弱い。蜜職人。蜜を作る「家畜」。巣箱定住。
日本ミツバチ・・・スズメバチを囲み体温を上げて退治する。かなわないとみたら巣を捨て新天地へ。
       花は選ばない。セイヨウに比べ、ごった混ぜ。
       ダニは簡単に取って捨てる。マイペース。


ということになるらしい。氏が述べるように、どこか人の生きざまを見ているよう。
人間の益になるように種を選んだ結果、蜜の採取量を重視する余り
ダニや農薬への抵抗力は二の次。頑固一徹職人型・専門職の西洋ミツバチ。
何でも日本の5倍は蜜が取れるそう。自然を支配し服従させるのが西洋のやり方だから、
理想と技術が蜂の飼育にも現れている。


単純に日本ミツバチは「蜜をちょっとだけ分けて」と周囲と共存。
馴れ合い・同調・みんな一緒社会の日本の縮図ではないが、
(そういう社会にはその社会也の締め付けがあるから)
蜂を機械代わりに仕立てるのと、蜂は蜂のままの生き方で、
なおかつそれを、ある程度まで利用させてもらってというのとでは、違う。


このコラムのように、
−−−人は理想を掲げ、それに向かって知恵をしぼり技術を高めていく。
   ただ、結果として不均衡な世界を作り上げてしまう。
   そんなつもりはないのに自然を汚染し、管理社会が「心の病」を生み出す。
   消えたセイヨウミツバチたちの嘆きもそんな所にある。 −−−
という持って行き方が、「なるほどこういう落とし所か」と思ってしまう。
日本のミツバチは運が良かったね、まだ元気に生き残っているねではなく、
西洋ミツバチの生き方って悲しいねと。


わかっていても、こういう「落ち」が心に引っかかる。
ミツバチの行方不明、蜂蜜・蜜蝋の高騰、品不足。
そういうものよりも、「こういう生き方、こういう結果って、
悲しいよね、哀れだよね」という論の展開に吸い寄せられる。
こんな自分の気持ちが、誘蛾灯に引き寄せられた蛾のようにも思える。
喜びよりも悲しみに惹かれる自分に、またかと思いながらも、
やっぱりそうなのね、そうなるのねと。


喜劇よりも悲劇。演歌は好きじゃないのに、
最終的にはコテコテの演歌の世界に戻っていくかのような、
マイナーな要素、字面、感覚に踊らされて左右されている。
そういう自分を持て余しながら、
ミツバチの勤勉さを、両ミツバチの持つ良き特性を、
我にも与えたまえと祈りつつ、仕事滞る今週。
仕事に喜びよりも悲しみを見出している?
どちらかといえば、「哀しみ」だけれど、ね。


ちなみに、「蜂飼大臣(はちかいのおとど)」と称された、
藤原 宗輔(ふじわら の むねすけ)は、平安末期の世を84歳までも生き抜いた。
寿命だけ見ても当時の常識からすれば、つわものといえばつわもの、
仕事はまじめにこなす、実直でユニークな人物。
この長命は音楽に秀で、蜂を愛し、自然を愛でていたからか。
紆余曲折の政治の世界、公家の世界にあって、
自分の趣味の世界を大切にして生きた。
その人こそ平安末法の世の哀しみに直面しつつ、
自分の世界を持つことで耐え抜いたのだろうな、と。
・・・実に、見習いたいものです。

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