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ジーザス・クライスト・スーパースター再び

BSは今週ミュージカル特集。というわけで、やっぱり見逃せない。
ジーザス・クライスト・スーパースター。
思春期の頃、映画に音楽に目覚め、ロックを愛し、
ミュージカルの素晴らしさに驚き、英語を勉強して、
ロンドンに行くんだ! と頑張った頃。
とうとう生の舞台を見ることは叶わなかったけれど。
(半年前にロングランは終わっていて)


関連の過去記事はこちら。
http://d.hatena.ne.jp/neimu/20071202 
http://d.hatena.ne.jp/neimu/20080918


娘と一緒にBSを観る。夜更かしはさせたくないけれど、
ビデオに撮ればいいのかもしれないけれど、
我が家ではなかなか録画は見ない。
結局積読と同じでいつでも見られると思うと、見ない。
だから、決めたら少々無理なスケジュールでもGO!
娘はかーちゃんがこの作品に関しては、
アンドリュー・ロイド・ウェーバー作品の中でも)
特別だということがわかっていて、呆れながらも何も言わない。


娘の目からは砂漠の中を1台のバスが走ってきて、
いきなり沢山のにーちゃんねーちゃんが降りてきて、
十字架が降ろされて、人々の輪の中からイエス・キリストが現れる、
あの衝撃的なオープニングは「何が起こったのか訳がわからない」
のだそうだ。古代と現代を繋ぐ演出も一刀両断の元に切り捨てられ、
かーちゃんとしては無念でならない。


おまけに映画の日本語訳は、今ひとつ。そう、字幕は。
限られた字数制限の中ではどうしようもなかったのだろう。
LP盤の歌詞は中学生の私を感動させるに足る名訳で、
英語を勉強しようというモチベーションには十分。
聖書の持つ雰囲気も伝えるものだった。
娘にはまだ聖書の世界はわからないだろうけれど・・・。
教会の日曜学校に通っていた私は、この映画を見たのち、あちこち旅行。
15年後にやっとイスラエルを訪れた。

ジーザス・クライスト・スーパースター ― オリジナル・サウンドトラック

ジーザス・クライスト・スーパースター ― オリジナル・サウンドトラック

ジーザス・クライスト・スーパースター [VHS]

ジーザス・クライスト・スーパースター [VHS]


ロック・ミュージカルが、ロックオペラと呼ばれた作品。
本の中で読んだ聖地が目の前に広がる。
リアリティ。思春期の私がく聖書の世界を理解するためには、
最もわかりやすいアプローチだった
愛する余り、心配の余り、最も愛する人を追い詰める。
追い詰めたくない人を追い詰める結果になる。
ユダの気持ちを、傷ましく思った。


エスを恋い慕い畏れ敬う余り、それ以上近づけないマリア。
ひたすらユダヤの指導者として生きていくことを過剰に期待するシモン。
自分達の勢力をそぐものとして抹殺しようとした司祭たち。
ユダヤ教徒の勢力争いに加わりたくないピラト。
映画の中では放蕩三昧の王、ヘロデ。
生身で真剣で滑稽。シリアスでロマンティックで・・・。


中学生の時に憧れた世界が、目の前に現れる。
当時の強い感動は、さすがに同じ強さで蘇らないものの、
娘は「今宵安らかに Everything's Alright 」と
ゲッセマネ Gethsemane」が気に入っているという。
なかなか渋い選曲。中高生だった私は当然といえば当然、
「 I Don't Know How To Love Him 」「Superstar」がお気に入り。
そしてこの映画のために新たに付け加えられているナンバー、
「Could We Start Again Please」が十八番なのだが。


この映画を、このミュージカルを見た頃は、
自分が旅をしてイスラエルに行くことも、
娘と一緒に映画を見る日が来ることも想像できなかったけれど。
インターネットの無い時代、歌手の情報も写真も入手できず、
この映画に出ている人たちが親の世代だということも、
今だから思えることで、当時は憧れの年上の人だった。
なのに、今ではみんな自分より年下。
画像の中で躍動する姿に眩暈がする。


インターネットでイエス役のテッド・ニーリーが、
相変わらずハスキーな高音で歌っているのを知り、(その御年で!)
ユダ役のカール・アンダーソンが鬼籍に入っているのを知った。
参考までにこんなサイト。http://www.geocities.jp/jcs_1973/links01.html
いやはや、熱烈はファンがいるものだ。
私が歳を取るのと同じだけ、時間は流れている。
リアルタイムでプログレを体験し、ロック・オペラが、
ロック・ミュージカルになり、四半世紀が過ぎても、
私の心の中にある原点はジーザス・クライスト・スーパースター。


劇団四季をけなすつもりは無くても、日本語で歌われるメロディは許せない。
ずたずたにされた歌詞は許せない。演出や歌詞のリズム、韻を踏んだ響きは、
日本語の舞台では再現されることは無い。
ましてや、映画版は聖書の世界を髣髴とさせる。
現代と古代が交錯する、不思議な世界。
それを、日本語では表現できない。
最初から英語で描かれた音の世界、音楽の世界、リズムの世界を。


万葉仮名で書かれた万葉集の歌を、英語に置き換えることができないように。
ニュアンスを伝えるのと、その国の文化に置き換えるのとは違う。
そういう文化の違いを知る由も無かった思春期の頃、
その私よりも、当時の私よりも5歳若い娘がこの作品を見ている。
音楽を聴いている。一丁前に感想を述べる。
試練の杯を飲み干そうという歌詞のある歌が好きだと、言ってのける。
何をどこまでわかって言っているのだか。


何時まで一緒にこういう時間を過ごすことができるだろうか。
私の青春、若かりし頃の感動を再び、
娘のDNAに受け継がれていくことを期待して?
ジーザス・クライスト・スーパースターを再び。