Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

何故かは言わない若者達

あっという間に水無月が終わろうとしている。
仕事が早く切り上がれば、近所の神社に水無月の祓に行こうと思っていたのだが、
なかなか残業続きで、天気も雨模様。
やっと梅雨が本腰なのか、この天気ではお参りも出来ない。
最も、時間も無かったのだが。


帰宅してから持ち帰り仕事をしようと思っても、体が思うように動かない。
もちろん頭も働かない。何だかボーっとしたまま、時間が過ぎる。
というか、帰宅すると何もしたくないというのが本音。
何もせずに何も考えずに眠ってしまいたいと思う。
久しぶりに娘と入浴し、一緒に布団を並べた。
学校で習った歌や、音楽教室の話。
お母さんは何が好きと訊かれて、昔の歌を歌ったりした。


娘と話していると、何故、どうしての回数は減ったものの、
やはり子供らしく色々訊いて来る。
それにどう答えるかが親の腕の、いや、頭の働きの見せ所。
親子だからこそ伝えておきたいこと、共有したい出来事、
思い出、昔話、お互いの愚痴。
学校であったこと、職場であったこと。
年齢差、うん十年の差を乗り越えて女同士の会話になったりもする。


娘は川原泉の漫画の影響で、「おや、どうした?
何か嫌なことがあったのか、話したくない?
そうかそうか、それでは、ぜひ話しなさい」なんてことを、さらりと言う。
「おしゃま」と言ってしまえばそれはそれでかわいいのだが、
ある意味恐ろしい会話パターンを漫画で習得しているとも言える。
むろん冗談で交わす私たちの会話だけれど、
親の職業の影響か、と思わないでもない。

寝る前の3分でチャンスをつかむ自問力―あなたの人生を変える言葉の習慣

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「寝る前30分」で人生が変わる

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仕事先で話す若者達は、何故とかどうしてなどとは訊いて来ない。
およそ、質問と言うものを発する前に、「わからない」を繰り返す。
「知らない」ではなく「わからない」ばかりを。
『何故かはわからない」というのは若者の特権なのか。
太陽が暑いから殺人、ある日突然目を覚ますと蟲に。
そんな風に、何故かわからない所から全て始まり、
それで全て終えようとしているのか、全く何故そうなるのだろう。


私は何故? と考えてしまう。
友人からは、考えてもわからない事は沢山あるのにと笑われる。
でも、何故? どうして? もしかすると・・・?
考えたり想像したり、類推、推理、その手の疑問の扱い方を、
どうしてタブー視するのか不思議なくらい、
「なんとなく」「気分」「雰囲気」「そんな感じ」で済ませる。


向かい合ったり探ったり、直面する緊張感に耐えられないのか、
根掘り葉掘り考えを巡らすことを避けているのか、
余りにも知ろうとしなさ過ぎる。そんな気がするのは、私だけではあるまい。
受け流す返事ばかりは軽く出すけれど、相手を窺うばかりで本音を見せない。
見せないのではなくて、見せ方を知らない。
牽制や自制、遠慮や謙遜といったレベルに達しているのではない。
最初から粗野な無知を個性だと前面に出す厚かましいふてぶてしさに満ちている。


こちらが質問する。仕事に必要なことを。問題解決に必要なことを。
動機を、背景を、感じたことを、気になっていることを。
でも、言わない。というよりも言おうとしない。
何故言いたくないのか、その先を考えようとはしない。
苛々したり、苦しくなったり、気分が煮えくり返るくらいならば、
最初から考えない方が「まし」だと自衛しているのだろうか。


何故か、どうしてなのか。
どうしてそう思ったのか、考えたのか。
根拠は? 理由は? その背景にある諸々のものをすっ飛ばして、
大丈夫だと思います、やれると思います、頑張ります。
ちゃんとします、わかっています、そんな返事ばかり。
裏付けをトコトン取ろうと言うわけではない。
しかし、自信も責任感も空回りすることが多すぎるから、
コトが起こる前に、確認したり質問したりせざるを得ない。
ホウレンソウ、報告連絡相談のアレンジ、
バリエーションを使わざるを得なくなる。


なのに、そこまで切り込まれても質問されても、
周囲に不安がられても、自分から「何故?」とは考えないし、
何故? とも質問しない。自分から何かを言えば不利になると思っているのか。
相手の言った言葉ならば、揚げ足を取りやすいのか。
そして、練習や訓練の最終段階で「どこまでがプライベートなのですか?」
やっと一言、言った人間が本日一人。


道のりは遠い。プライベート。
仕事は難しいね。
個人を犠牲にしないと出来ない事も多い。
個人に拘りすぎると見えないものも多い。
けれど、「人は石垣、人は城」だから個人を大切にしたい。
その前に、したいことだけをするのか、しなければならないからするのか。
何故ここに来たのか、考えて欲しい。


娘よ。君の素朴な疑問や質問に答えながらささやかな会話を紡ぐ時、
いつか君もふてくされた顔をして、自分を隠して、自分を守ろうと、
知らないわからないを連発し、疑問や質問に答えながら、
会話を発展させる中で、自分の考えている物事を違う角度から眺め、
ためつすがめつしているうちに、苦い思いで見たくない現実、
知りたくない自分の内面、やりたくない理不尽な仕事と向き合って、
返答に困る日々を送る時が来ることをちらりと思う。


その時、君がかーちゃんとのやり取りや、とーちゃんとのやりとり、
友達とのやり取りからどんなふうにその場に臨むことができるか、
「きちんと向かい合うことができる」若者に育って欲しいと願う。
今時の子供よりも、遥かに遠い所に居るかーちゃんは、
君が分別盛りの頃は、もう話をすることが出来ない。
子供の旬が短く、思春期のその先は長いようで短いのに、
超高年齢出産だと一緒に過ごせる時間も短い。
出張続きの今月は、君の夏を半分見ずに終わってしまったような気がする。


時間を留めて置けないのなら、一緒に暑いよ−と言いながらも、
何故、何なの? の会話を楽しめる時間を大切に思う。
どうして? 私はね、そんな風に話せる時間を。
君を、君との会話を、娘よ。
仕事のことを寝床でも思い出す、かーちゃんの「闇」の中で光る。
君は眩しいほど光る。
それが嬉しい。
それが哀しい。