Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

気付いていましたか?

もしもあなたが、時々私のブログ、
「Festina Lente ゆっくりいそげ」によく来てくださる方ならば、
今の私のブログがかなり変? な状態に気が付いているでしょう。
そう、入院した時でさえ大部屋にLanがある病院にいて、
体を起こせるようになったら、3日4日遅れだろうが、
ひたすら書いていた人が、リアルタイムとは行かないまでも、
毎日規則正しくアップしていた私が、
タツムリの匍匐前進のようなアップの状態が続いていることを。
約、1週間の遅れを継続している夏。
これは、絶不調とまでは行かなくても、結構不調。


もしもあなたが、私の文章が気に入ってくれているならば、
もしもあなたが、言葉が好きな人ならば、
私の言葉遣いや漢字が途切れ途切れで、誤字脱字のオンパレード、
最初の頃と随分変化したなと感じているでしょう。
そう、気が付けば3年経っていたのですが、
そう、何と書き始めて3年が経っていたのですが、
自分が思っていたよりも進歩もなく退化しているので、
少々自分に向かい合ったり、物事を考えたりするのに疲れたのでした。


書いた記事は無意識のうちに消えたり、消してしまったり。
私は、ついうっかりというのは「無意識のなせる業」だと思っています。
で、考えることに疲れ、悩むことに疲れ、それでも書いていたいはずの自分が、
かつて書いたような文章も、リズムも、行間も見出せず、
日常生活の中に埋没してしまったことに、疲れてしまいました。
書けば、ほんの少し位相をずらして別世界とまでは行かなくても、
もう少しましな状態に移行できるかと思っていたのに、
日常生活のほうが侵食されて、書く事が自分を破壊している、
綻びを生じさせていることに気が付いたのでした。


書くことはエネルギーを必要とします。
負のエネルギーを発散させるために、紛らわせるために、
珍しく高揚した気分の時は鎮めるために、
色んな出来事を、娘に話せる日が来るかどうか、
忘れないうちに書き溜めておくために、
キーボードを売っていたのに、それがとてもしんどくなって。
ブラインドで打てたはずのキーが、うち間違いが増え、
言葉がなかなか思い出せず、語句や文章の繋ぎ目がほどけてねじれて、
自分の言葉ではないような、そんな気分になる事が増えました。


書きたかった筈のことではない、思っていたこととは違う、
頭で思っていることと、筋肉の動きが一致していないように、
言葉もキーボードもばらばらに動いている。
下書き機能を使って書くのは実は嫌いなのに、
時々は頼らないと、文字がどんどん消えて行く。
そんな、日常に少々疲れてきました。
年齢のせい、更年期、老化、非生産的な駄文を綴ることに、
少々焦りと苛立ちと怒りや哀しみの方が目立ち始め、
諦めというのりしろで製本しかけている。


こんな筈ではなかったのに、という違和感。
考えている事がどんどん消えていってしまうような不安。
規則正しく言葉を連ねて表すことに、追い詰めれるような感覚。
書けない、思うように書けないという焦燥感。
とうとう、2日3日と書けないまま、遅れは募って、
気が付けば、ブログを始めて3年以上が経っていました。
でも、その記念日さえ忘れていました。
記念日が大好きな私だったのに、すっかり忘れていたのでした。

更年期にやさしいCD?イライラ

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快眠がうつを防ぐ 自分で治すうつ (眠れるCD付)

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同様に、書類に追われる仕事、約束事、期日、締め切り、
そういうものに縛られ追われているのに、苦痛を感じるようになりました。


同じことの繰り返しが仕事、なのに仕事と割り切れない。
自分の定年まで残された時間、娘が学生となり家を出て行くだろうまでに、
10年を切ったのに、こんなふうに生活していくのだろうか。
このまま歳を取って行くのだろうか。
世間一般の「当たり前のこと=杞憂」という重石に押し潰されそう。
考えなくてもいいこと、考えても1文の得にもならないこと、
そういう考えが渦を巻いて頭の中から湧いてくる。


とうとう寝ている時に「変な夢」(青い何かが天井から落ちてくる)に
うなされて、家人にびっくりされることも。
書く事が楽しかった日々が、書くことに倦み疲れ
感じたり考えたりする痛さ、そうまでして書いても、
ただの日記でしかないのだから、それ以上に何もあるはずもなく。
どこまで行っても、自分の世界の縦糸と横糸。
糸を紡いで織り続けても、何の衣になるのか
どんな染めができるのかわからない、
イメージが散漫なままで、形にならない自分に
ちょっと付き合いきれなくなってきました。


余りにも自分があやふやで曖昧になってきたので、
毎日の生活をどれだけ覚えていられるか、タイムラグが生じたならば
それをどこまで辿れるか、試すような気持ちで今は書き続けています。
きっかけは些細なこと、パソコンの不調や、デジカメの故障、
ある一言を心にとめてしまったが故に、そこに囚われ、
気力が萎えてしまった事が続いたのですが。
理屈の上での「断機の教え」も、今の私の倫理・観念・行動原則に届かず、
倦怠感、気だるさが「書くこと」の面倒臭さを前面に。


出来事だけを見ると、毎日色んな事が起こるので、
並べていけば色んな沢山の起伏ある日常生活。
しかし、1週間遅れで気付いたことは、そういう起伏の頂点、
それだけしか思い出せない。それさえも思い出せないほど沢山ある。
そして、頂点さえも失いなだらかに何もかも忘れて行く自分、
そういう世界を垣間見たのでした。


ブログを閉鎖する人を何人か見てきました。
ブログをお休みする人も、別の名前で別のブログを始める人も、
依然として書き続けている人も。
どうしてやめてしまうのか、その気持ちが少しだけわかりました。
お休みする人の気持ちも、別の名前で別の話題、
別の角度で書いてみたい人の気持ちも、引越しする人の気持ちも。
何となく、今までと同じペースで書き続ける事ができなくなっている、
そんな自分をどうすればいいのか。


休んでしまえば、何もかもから解放されるような感覚、
一瞬でも持てるのだろうな。
でも、人気ぶろがーでも何でもない自分が、
再びどっこいしょと始めるのは、(再開でも新装開店でも)大変。
細く長く続けて行くほうがいいのかな。点滅し続けるホタルのように。
季節ものの記事。いやいや。(笑)
占いを見ても、「耐える8月」とある。やれやれ。
プチ鬱は、こういうことかな?


というわけで、7月8月の殆どの予定は予め放り込んであるので、
体は何とか動いているわけですが、心は正直でなかなか書けません。
元気な時なら仕事が忙しくても、2・3日遅れで追いつけますが、
今はそんな元気が無い夏バテなのかもしれません。
ブログばて、と言ってもいいかもしれません。
自分の浅い底をさらえて尽きたのかもしれません。


現状維持は退化の始まり。
今はボケボケになってしまった老母から言われた、
苦い言葉が自分を縛る。
仕事に関して焦点は絞らない、鉄則。
1000日を越える生活記録が、このままでいいと思えない。
なのに、リアルタイムで生な感情・気持ちを書くのに
抵抗を覚えるように。え? 覚えるようになるのが遅い?


そんなわけで、3年経ったと気付いているのは、
この日付の1週間後です。
リアルタイムは逆行する記録の中に隠されて、
何が本当か感じたり考えたりする痛み逃れようと、
忘れることに熱中し、本当に忘れてしまう。
点と点とを結ぶような記録の中に見えてくるのは、
出来事の底にある、感情、揺れる気持ち、苛立ちや哀しみ、
そういうものばかりが粟立ってくる。


昔はこの年齢になれば、もっと醒めて大人だと思っていたのに。
もっと色んなものを底に鎮めていられると思っていたのに、
浅いお堀しかなかったのね。
そんな感じで辿っている1週間後。
これが、3年経った今現在。
誰か、ここで突っ込んで下さい。
落ちれば上がるしかないんだよって。

「ちょっと鬱かな」と思ったら聴くCD

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