Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

厳しい時代

確か先月、高校の就職求人倍率の全国平均が0.71。
沖縄なんて0.1だよと誰かが言っていたっけ。
大学卒でも就職難、氷河期の再来と大騒ぎし。
高卒だったら楽に就職できるんじゃない、
販売・現業だったら、アルバイト上がりや繋がりで、
何とか就職口が見つかるんじゃない、
学科試験がある事務系と違って。


そんなふうに暢気に構えていた高校生、
楽して稼ごうフリーターで生きてきた学生は、
求人の少なさ、滅多に雇って貰えない現状、
経営が苦しいので人が少なくきつきつのシフトのバイトに、
辟易としながらも就職活動を行っているそうだ。


短大生や大学生が何十社と会社回りをして、
セミナーに顔を出し、就職活動を行うのに比べ、
自分の足で探し回ったりしない求人票待ちの高校生は、
原則学校紹介就職なので、切実感が少ないそう。
1、2回の就職試験の失敗で「バイトでいい」と、
就職活動そのものを、あっさり諦める者も。
家に余裕があれば、進学に切り替えるそう。


おんぶに抱っことまでは言わないが、
書類の書き方から面接練習、書類の提出まで頼りっきり。
今時の高校生は郵便局で郵便を出す経験も無ければ、
(切手を貼れない、書留も速達も知らない)
お金を取り扱う窓口が何時まで開いているか知らない、
調べようともしない。銀行も郵便局も自分に関係ない、
強いて言えばやっぱり親掛かりで誰かが何とかしてくれる、
そんな感じでこの期に及んでまだふわふわしているそうだ。


そんな生徒・学生ばかりでは無いのだろうけれど、
どこかで誰かが助けてくれる、親もいるし・・・。
そんな感じなんだろう。ずっとそう思っているのかも。
助けはどこからか必ず来るもので、
アドバイスや何らかのしのぐ方法は与えられるもので。
職場を見ても「指示待ち人間」の山だから。


今日『クローズアップ現代』では助けを求めることができない、
窮状に陥ってもSOSを出すことさえできない若者(30台が若者か?)の
悲惨な現状についてレポートしていた。
(「助けてと言えない ―今30代に何が―」)
これは社会問題? 機能不全や不況の経済状況の話?
それとも社会生活訓練不足のコミュニケーション不全の問題?
社会に出た時から自分が望むような仕事に就けず、
その場しのぎの生活の中で擦り切れて挫折感や鬱が引き金の、
静かな自殺行為にも似た現象?


何しろ誰にも何も言えないまま、餓死してしまった人も。
病死でもなく、餓死。縊死でも轢死でもなく餓死。
言いたいことが言えなかったのか、伝える力さえ残っていなかったのか、
言いたいことを言う能力さえ奪われてしまっていたのか。
世間はどこでも個室、言葉の垂れ流しと評される、
ケータイ世代が横行しているのに。


ケータイ電話、ネットワーク、何だかんだ商戦かまびすしい中で、
地デジだ、光通信だと勧誘合戦の続く中で、
片やそういう機器を使いこなす中心世代のはずの30代が、
萎れる様に落ち込んでいるという。
周囲にそういう人間を直接見ることは少ないので、
少しくびっくりさせられてしまうのだが。

強いられる死 自殺者三万人超の実相

強いられる死 自殺者三万人超の実相

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)



静かな自殺。追い込まれていることさえ意識せず、
何とかなるのかもしれないけれど、駄目かも知れない。
それならそれで仕方ない、自分のせいなんだしと諦めて、
ひたすら何かを待って期待できない何かを当てにして、
そのままで終わってしまうのだろうか。
何をしても運が悪いなあで、済ませるのだろうか。


別に自ら行動を起こして積極的に自殺をすることが、
能動的だとは思わないが、SOSを求められない。
静かな自殺の時代なのだろうか。
日本では毎年3万人以上が自殺している。
ある意味働き盛りの世代の男性を中心に、この世から消えている。
能動的な自殺と受動的な自殺。積極的な死と消極的な死。
そういう死に方が、日本社会の問題の歪みの表れ?


ふと、『日本語のこころ』という金田一春彦のエッセイを思い出した。
日本人の言葉遣いの背景にある心的特徴について語ったものだ。
異文化・外国語と比較しながら、日本語の特徴を論じていた。
日本語の持つ特徴、肉体に対する間接表現、慣用表現、
論理的にはおかしいけれど、文脈上会話の中で使われる短縮・省略。
相手の立場を優先し、自分をへりくだって表現する尊敬語・謙譲語。
相手を慮り自分の不注意や至らなさ、配慮のなさを責め、
責任を自分に求め、相手を責めることのない日本人の在り方、
道義感あふれる文化、その文化を背景に日本語があること、
これらを育んだ祖先の来し方に謹んで礼を述べたい。
そんな内容だったと思う。→他人の嫁さんをもらってもいいの?: 聞こえるように独り言


しかし、見方を変えれば相手を立て過ぎるのは、いや、
自分を責める心性を言葉の上から習得しているならば、
その言葉の持つ構造に支配されるならば、
常に自分に責めを求め、責任から来る重圧、
自己不全感、不満、抑圧に押し潰されることになる。


口先三寸、頭を下げながら裏でぺろりと赤い舌を出し、
悪口を言って憂さを晴らして何ぼ、そんな風に割り切ってこそ仕事。
そういう風に思える人ならばまだしも、思うことさえ心苦しく、
自分に非がある、相手に申し訳ない。
こんな自分が許せない、嫌だというのであれば情けなさも募ろう。
鬱々と楽しむことも難しかろう。


それでなくても、仕事はきつくなる。人員は整理される。
いつ自分にお鉢が回ってくるとも限らない。
減らされる給料、自ら退職を願い出るように窓際へ、
出向、転籍、リストラ。退職金は雀の涙、厚生年金、
国民保険はもはや自分の老後や健康を守ってくれない。
生命保険は掛け捨て、なのに、いざという時払い渋る。


誰が悪いのか。こんな時代に生まれた自分が悪いのか、
こんな仕事に就いた自分が悪かったのか、
選んだ仕事が、会社が、今までの自分の人生の積み重ね全てが、
選択と決断の全てが「自己責任」だと言われればそれまで。
社会から切り離されるような自分が悪かったのだ、
今まで生きてこられただけ、ましと思わなければならなかったのだ。


・・・こんな風に思考を展開して、自分を責め続けていれば、
積極的にも消極的にも自殺するしかなくなってしまう。
プラスに自分の価値を見出せず、
〜べきだったのに、できなかった自分が悪い、
〜する配慮が足りなかったのは自分にある、
言葉の上から自分の思考・判断を「責め続けている」のでは。


金田一先生のエッセイに難癖をつけようとは思わない。
でも、『日本語のこころ』のある面の持ちように支配された、
負のサイクルがあるならば、認知的にマイナスの仕掛けがあるならば、
無意識のうちに取り込まれてしまえば、静かな自殺もありかなと。
ふと哀しく考えた今日。
クローズアップ現代』の30代も、今の高校生、大学生も。
厳しい時代に生きている。
(なのに、まだまだわかっていない人も多いのだが)


だからこそ、何かしなくてはならない私の仕事、
なんだけれど、ね。