Festina Lente2

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100年フェアの片隅で

レヴィ・ストロース死去のニュース。先月の30日に亡くなったそう。
というよりも、今までご存命だったのかと、正直驚いた。
あちらこちらの文人学者が影響を受けたという有名な彼の、
名前のみインプットされているものの、
余りにも巨大な足跡を把握しきれるものではなく、
著作は読み通すことができぬまま本棚の片隅にある。
文化人類学や心理学をかじった人間ならば必ずお目にかかる人名なれど、
雲の上の人といった感じで仰ぎ見るだけで、遠巻きに眺めているのが精一杯。
100歳まで活動し続けて亡くなるなんて、凄い。


本棚の片隅で埃を被る著書を読み切って、
自分なりに薀蓄を語れるようになる日が果たして来るのか。
かつて『フレイザー金枝篇』というフレーズが、
臨床心理学関係の著作あちこちに目にされたように、
レヴィ・ストロースもあちらこちらで引き合いにさえる名前だった。
私のような人間にとっては遥か彼方の人、一部の文化人のアイドル、
彼を知る事は学問をする人間のステータス? スクリーニング?
その手の世界の目に見えぬ勲章のようなイメージで記憶されている、
レヴィ・ストロース。全く何とも情けなく申し訳ない限りだが。

レヴィ=ストロース入門 (ちくま新書)

レヴィ=ストロース入門 (ちくま新書)

神話と意味 (みすずライブラリー)

神話と意味 (みすずライブラリー)

博学で人の心を捉えて話さない、いまだかつてファンが多い作家、
松本清張も生誕100年で賑わっている。レヴィ・ストロースと同時代人わけだ。
文学が、書店や出版業がたそがれているこの時代に、
100年記念イベントは何かと理由を付けやすい企画。
粗筋解説、エッセイ・対談集、思い出・語録、作品集・全集・アンソロジー
新装版、何でもござれ。残念ながら松本清張も、
私が気合を入れて読み込んだ作家ではないので、
いずれまた老後の楽しみということになるのかもしれない。
いつでも読めるという感覚と、
私には近寄り難い印象の方が強かった彼の独特の雰囲気写真が、
文体や内容そのものよりも彼の作品を私から遠ざけたのかもしれない。

半生の記 (新潮文庫)

半生の記 (新潮文庫)

ゼロの焦点 (新潮文庫)

ゼロの焦点 (新潮文庫)


同じように作家の作品を純粋に享受するには潔癖だった思春期に
太宰治のスキャンダルは、嫌悪感を催す以外の何物でもなく、
その作品にも退廃的な手垢のような物を感じ、
近寄ることを潔しとしないような、
そんな気持ちで読み逃したまま来てしまった。
小学校で読んだ『走れメロス』の男の友情も単純で滑稽な感じ、
やたら盛り上がって頬を叩き合っている男達も、
ヒステリックな無理難題を出す王様も気持ちが悪かった。


思春期の入り口に立っていた私には、
登場人物の劇画的に高揚した感情は鬱陶しく
まがい物作り物の人形が繰り広げる物語にしか思えなかった。
あの時の違和感が、今も私を太宰から「引かせる」理由だとしたら、
何と長い間、子供の頃の直感に影響されているのだろうと、
我ながら唖然とする。


今は文学の「ぶ」の話も出来なくなってしまった母が、
若かりし頃こつこつと買い求めた筑摩の文学全集が
私の日本文学(で読みべき作品)のイメージを決定しているのだが、
母が太宰の作品で唯一言及したのが『斜陽』だった。
冒頭のシーン、「ひらりとひとさじスープを飲む」という表現について、
母があれこれ語っていたように思う。内容が思い出せないほど遥か昔だが。
その後、中学生の頃だが読んでみて、こりゃあ駄目だと思った。


まずまず気持ち悪さが先に立ってしまい、何も出来ないような女性が、
実はしんねりと芯に強さを秘めて、いつまで経っても溶けない蝋燭のように、
ちろちろ燃えている姿を連想してしまったのだ。
太宰の作品も読み応えがあるというより、異質な世界をねっとりと現出させる、
走れメロス』という子供向きの作品よりも、もっと禍々しい毒を以て、
人の心に迫るうとましいものだと感じたあの頃。
(単に読む時期が早過ぎて理解できなかったのかもしれないが)


第一印象が悪いと、なかなかイメージが訂正できないように、
この年になっても冷静に彼らを見つめ直すことが出来ずにいる。
損な読書体験、損な読者、そう言われても返す言葉が無いのだが、
太宰が実在の女性の日記を参考に、その作品を煮詰めていったことを知って、
ますます近寄りがたくなってしまった。以来、読めていない。


今の世は日記大好きな日本人が、世界に先立って発信する個人情報、
ブログ大国の現状からすれば、個人の日記を参考に作品を云々は
神経質過ぎるのかもしれない。私が日々書き連ねているように、
ネット上に溢れているのだから。
しかし、なかなか手に入りがたかった個人の気持ち・思い・
経験が綴られた物を自分のうちに取り入れて、その書き手と関係し、
自ら死んでいった人間に、なかなか感情移入するのは難しかった。


斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇 (文春文庫)

斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇 (文春文庫)

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)


感情移入とまではいかないが、こういう人もいたのだ、
全く知らなかったけれど、もう少し知ってみたいという人に、
今月号の『図書』に情報数学者の野崎昭弘氏が言及していた、
遠山啓(ひらく)という数学者がいる。彼も生誕100年、没後30年。
世間で全く話題にされないのは、商業ベースに乗せて本が売れる人物ではないからだが
がたがたになっている日本の教育のことを思う時、この人のことを知るのは
必要なのではないかという気がしている。


数学がからきし駄目な文系人間の私だが、野崎氏の説明を読むと、
こんな人に数学を教わってみたかったな、
単元学習で力を付けたかったなと、この年になって思う。
娘の教育に頭が痛い私にとって、どんなふうに好奇心の目を養うか、
小学校の話を聞いている限り、娘のノートを盗み見しては、
眩暈がするような不安に襲われる。


巷の新手の教育雑誌にノートの取り方をいちいち載せて、
各教科ごとに比較して大騒ぎしているが、消えてしまった学習雑誌、
中一時代でも先生の癖、特徴ごとに板書をどのように見るか、写すか、
ノートをどんなふうにまとめるかは説明されていた。
同じ内容がカラーグラビアで載っているだけだ。
勉強というものは、しなければならないことが大きく変わるわけではない。


ドリルをしたり繰り返しをしたり、きちんとした間違い直し、
そういうものが学校で行われなくなって、最低限のことしか教えず、
「わかる・できる・面白い」と興味を持つ子供の知的好奇心を消し、
学校の外の塾に受験勉強に押しやってしまった今、
アジアで最も勉強時間の少ない国日本は、ゆとりの意味を履き違え、
教育後進国の転落の道をまっしぐらに歩んでいる。


国語教育もいい加減なまま、英語教育が国際化の道だと信じ、
国立の最高学府に入るのに記号で点数化しする1次試験。
私学に至っては1科目入試、学力を試す気力は無いらしい。
推薦入試で囲い込み、少子化の子供の学力を一人一人見る事さえしない。
一人頭150万の札束に換算して確保することが重要課題。


教育に回すべき予算を何処にどう使っているのだか、
誰も読みもしない学習指導要領を印刷して各学校のみならず、
全教員に配布という前代未聞の資源と予算の無駄遣いをして、
現場を唖然とさせ、新政権に予算を使わせたくない為に、
旧政権が急いで発注配布したものらしいと、まことしやかな噂が飛び交う。
そんな荒んだ教育現場に、我侭を自由と履き違えた生徒が溢れる。


思考力の育っていない児童生徒に、自主的に任せたがゆえの今の個人の思考力。
覚えこませるのは悪いことだと愚かなことを言ったお役人、学者。
スポーツだって反復練習が必要、準備体操、クールダウンが必要なのに、
時間を掛けて繰り返し覚え、書いたり読んだりする手間を記号化で済ませ、
お上は、物を考えないどころか考えるとはどういうことかわからぬ人間を量産した。


この落ちた学力を10年20年単位で底上げするのは全く無理だ。
親の世代が出来ないことを、子供にさせるのは難しいのと同じこと。
生活の為に必死で働いたり、年長者を敬ったりする事も知らずに、
楽しく楽して人と深く接するのが苦手で、
浅く広くが心の安寧とばかりに引きこもる。
その有様を「自分達の世代の特徴」と開き直るのが親世代ならば、
子供に何を教え伝えてしっかり記憶させようというのか。


反面教師のような迷い多き太宰の生き方も、
社会は推理小説松本清張が構築した世界も、
遠山啓が唱えた「楽しい算数、競争よりも知的好奇心」も、
何もかも失くしてしまっているような、今の日本。
だから、100年、100年を声高にイベント化して、
何かを意識させようとしているのかもしれないが。
too late, too lete…
イベント化してどれだけ過去を懐かしんでも、未来が見えない。
100年イベントは哀しい。
「国家100年の計」の教育が荒んでいる今、虚しい。

数学の学び方・教え方 (岩波新書 青版 822)

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遠山啓のコペルニクスからニュートンまで

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文化としての数学 (光文社文庫)

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