Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

微笑返し

はや師走も1週間を過ぎた。
大学時代の親友からは毎年届くアドベントカレンダー
小窓を開ける楽しみは娘の特権だ。
去年はカレンダーの小窓を明けるとチョコレートが出てきたが、
今年はチョコレートはちょっとしたブランド物が同封。
いつもありがとう。
友人から届くカレンダーを見ると本格的に12月としみじみ。
それにしても温かい12月だ。地球温暖化だとしみじみ思う。


南半球の人はともかく、クリスマスは寒いもの。
『マッチ売りの少女』ではないけれど、凍てつく寒さ、降り積もる雪、
長年刷り込まれてきたイメージは強ク、生温い12月は気持ちが悪い。
今週は忙しさに拍車が掛かるので、気持ちの上でプレッシャー。
この季節になると、炬燵猫と化し、布団の上に横になることがなくなり、
持ち帰り仕事の山を目の前に、うんうん唸ることになる。


気分転換の読書や音楽鑑賞も減ってきた。
変な話、20代中頃までは音楽を聞かない1日なんて考えられなかったのに、
特にどの曲を聴かないとという執着、思い入れが年々薄くなり、
新しい曲を仕入れたり、歌ったりすることが減ってきた。
心の中のストックは若い頃のままで、減ることはあっても増えることはあまり無い。
新しいメロディーはいつも娘の鼻歌から入ってくる。


若い世代の人間と暮らさないと、老け込む。
実際に子どもがいる私でさえそうなのだ。
夫婦二人だけ、職場でも若い人と接することなく過ごすとしたら、
どこにも出かけず、自分だけの世界に閉じこもっているとしたら、
世界はどれだけ狭くて、面白みに欠けるだろう・・・。
でも、今年後半はブログのお客様が増えてアクセス数も少し増えた。


専門的な話は意識して書かないようにしている。
書評ばかり書くのであれば、別のコーナーに。
仕事の話を描くのであれば、これまたしんどい。
枠組みを何に決めるとなると、雑談雑文に限る。
否が応でも、仕事の話も興味関心も自然に筆の遊びとなる。
シリアスな話も、自己開示も程々でなければ、人も自分も疲れてしまう。


そうならないように、ゆっくりいそげ。
それがたとえ回り道のように見えても、年末の忙しい時、気はそぞろ、
焦ってしまって苛々することも増えるけれど、呪文のように唱える。
自分自身に向かって、Festina Lente、ゆっくりとしかし着実に。
なかなかそうできないから肝に銘じなければならない。
ゆっくりいそげ。イラチで慌てん坊で落ち込み易いけれど、
年相応に大人になって、淡々と、しかし着実に前に進んでいけるように。

「ゆっくり」でいいんだよ (ちくまプリマー新書)

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とっておきのモーツァルト(7)ゆっくり寛ぐモーツァルト

とっておきのモーツァルト(7)ゆっくり寛ぐモーツァルト



トモダチコレクション』の中の家族の分身、友人がモデル、うつしみ、
物語の主人公をもじったマンションの住人達、遊びの世界のMii達が呟く。
それが世間でよく聞かれる台詞なだけに、ドキッとさせられたりくすっと笑えたり、
なかなかどうして心憎い作りで、誰がどんなふうにこの呟きを吹き込んだのか、
ある一定以上の言葉を教えると組み合わせて話すものなのか、
妙に説得力のある言葉や、世間一般論や、当たり前の一言に心和む。


時には結婚するのと結婚しないのとどちらが幸せか、
時間があってもやりたいことが無いのと、時間が無いのにやりたいことが一杯なのと
どちらがいいと思うか、問いかけてくる。
左かが体を洗うとか、今日が良ければそれでいいだのというレベルも、
一人でいると心が落ち着きます、そちらの世界の私は元気ですかというものも。
時々、今日遭ったMiiの台詞を書き出しておこうかと思うくらい、面白い。


そして、よくよく考えてみると、トモダチコレクションの発言・台詞同様
気分転換も兼ねてネットサーフィン、ブログの世界を渡り歩いていても、
人はそれぞれ自分の言葉で自分を語っていて、それぞれを語る。
身につまされることもあれば、楽しさを共有することも、
自分の虫の居所が悪ければ、今更何をという思いで読むことさえある。


結局は自分の好きな言葉、気になる景色、面白いと思える記事に執着する。
人は見たいものを見、聞きたい言葉を聞く。
見出したいと思うものを、自分の望むものを見出し、小耳に挟み、
情報を仕入れる以前に、既に無意識に取捨選択している中から、
更に選りを掛けて選ぶ。そして、感慨に耽ることもあれば、
過敏に反応せざるを得ない事柄に傷つく。


その移ろいやすい心の変化を、時には共感で納得することもあれば、
意外の念で驚嘆、呆然、憤慨、愕然とすることもあるわけで、
その反応に過敏になると、目に見えない縛りを自分自身に掛けて、
疲れいや増すことになる。それは虚しい。
何かに反応すること、もしくは色々思うことはあっても、
無視ではなくて見守る意味でスルーすること。
この世界ではそれは大切なマナー。


お互いが見返りを求めるようになったり、反応を求めるようになると、
取り残された気分になりかねない。
必要以上の慰めや、隙間を埋める感覚、空白を充填する強迫観念に、
囚われすぎたりはしないだろうか、そんな事を考えたりする。
時に、これはリアルタイムでのアップを3ヶ月以上避けてみて、
特に感じるようになったのだけれど。


リアルタイムで即答、反応、反応してもらえる嬉しさ、
それも大切だけれど、待つこと、見過ごされても耐えられる、
いや、見過ごされているのではなく、多くの人は見ても何も言わない、
何も感じないから何も言わない人もいるだろうけれど、
感じていても、あえて口に出したりはしないものだという事を、
どこかできちんと知っておかないと、無意識のうちに、
何かをもっともっとと求め過ぎるのではないかと、
最近少し気になることが増えた。


何かをして貰うのが当たり前、何かをするのも当たり前、
習慣、慣例、礼儀、配慮、手順、マニュアル、お詫び、お礼、
よい意味で当たり障り無く、穏やかにすれ違うことができれば、
静かに目礼、会釈して行き違うことができれば、
それだけでも気遣い・心遣い、相手へのささやかな尊敬の念が
伝わっていくのではないか、伝えたいと思っているのだけれど、
何か強要されているのではないかと、ふと不安になる。


時折そんな風に感じることが増えてきた、この年末。
気にし過ぎないようにしようと思っているのだが、
今日は書き留めてみた。
昔懐かしい『微笑返し』の曲を思い出して、ゆっくりいそげ。
そう、静かな微笑を以って通り過ぎて行きたい、
良くも悪くも、そんな風に思うことが増えてきた、この年末。

ほほえみがえし―江口愼一写真集

ほほえみがえし―江口愼一写真集

ほほえみにはほほえみ

ほほえみにはほほえみ