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『アバター』と第九

年内のアップはここまでです。
親戚宅で年越し、またそれも含めて年明けにアップしましょう。
皆様、今年一年のお越し有難うございました。
また、来年も楽しくお付き合いできますように。
良いお年をお迎えください。

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話題作『アバター』を3Dで観る。前評判が凄かったが期待外れ。
まず、3時間にも及ぶ超大作をあの3D眼鏡を掛けて観るのは疲れる。
目が非常に疲れるのに、3Dを実感できるほど驚異的な映像は少ない。
何故ならCG映像を立体化、リアルな迫力は予め半減されており、
最新の技術力を導入というのは理解できても、自然な生の演技から来る迫力と
CG技術力のせめぎあいの中では、結局3Dが生かしきれていなかった。


背景の景色の立体感が、ハワイの自然を参考に作られた熱帯雨林というのも、
「パンドラ」という星のネーミングも、「ネヴィ」という原住民も、
パンドラの住民も、全て欧米人の白豪主義から観た先住民族の姿。
かつてインディアン、エスキモーと呼ばれた人々、
或いはアボリジニ、アフリカの民族文化を連想させる。


画面から受ける印象は、開拓・開発の名を借りた搾取と自然破壊、
先住民族・文化・自然からの抵抗、その対立の構造。
いつものお決まりの恋愛パターン、先住民族の娘と搾取側の手先の男。
相手を理解する振りをしながら機密・秘密情報を収集、
その過程で自分の在り方が是か非か悩む。典型的なパターン。
この映画に新しい部分はあるのか?


進んだ技術力で描かれたアニメと実写の融合、
キャメロンの思い描いたイメージの世界を、技術力が演出できた事は素晴らしい。
されど、この映画に様々な思い入れを込めて作ったところで、
白豪主義差別意識を拭い去った人権意識が改められ、欧米に浸透するとか、
京都議定書に反発するアメリカが二酸化炭素の排出を意識するとか、
むやみに鯨保護を訴える団体が日本の食文化の伝統を理解するとか、
そういう影響力を持つならいざ知らず。


アバター』は現実の影だ。あらまほしき願望、生まれ変わり、再生、
もう一つの自分、理想的なドッペルゲンガー、自分の半身、
存在しなかった自分、それは個人の影だけではなく、歴史の影でもあったらしい。
多くの民族を迫害し、抹殺し、「クリアランス」し、宣教だ布教だ、教育だと、
自分達サイドの開国・交易を迫り、それを外交だと主張してきた、
欧米中心の歴史のあり方の影を、『アバター』の中に再現しているに過ぎない。


アバター』に深い感動を得る事はできなかった。
ストーリーは単純で、すぐに展開と結末が見通せるものであり、
3時間の時間はやや冗長過ぎるCG描写に費やされていた。
救世主・英雄伝説、自然に対する信仰、精霊への尊敬、命の連環、
そういう民俗学的神話的思考文化体系、先住民族への畏敬を、
今更再認識しても、もはや時、既に遅しの感をいや増しにさせる。
結局私はこの映画を、明るい未来へのメッセージとして受け取ることが出来なかった。
失われて2度と手に入れることの出来ない限りない慙愧の念を、
映像でカモフラージュした、そんな風にしか受け取れなかった。

The ART of AVATAR ジェームズ・キャメロン『アバター』の世界 (ShoPro Books)

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アバター 公式完全ガイド

アバター 公式完全ガイド



かろうじて、『アバター』に共感できた部分、それは、
失われた現実の肉体をアバターによって手に入れることができるシーン。
動かない足が動く、大地を踏みしめることができる、足指の感触、
立って走るという感覚、それは一度失ったものなら切実にわかる。
私自身、自分のリハビリを思い出し、リアルに新しい肉体に憧れる、
その気持ちだけは痛いほど思い至った。


そして、今の年齢。どんなにメンテナンスを掛けても、医療の力を借りても、
若さや柔らかさ、体力は元通りにはならない。
皮膚の衰え、皺、染みだけではなく、気力体力の充実を思う時、
アバターの中に失われた「若さ」「命」を見出し、共感を覚えた。
それは、若く美しく命の時間に余裕のある世代にはわかりにくいものだろうが。
人間は「アバター」を持つ事はできない。
ゆえに、その一回性の「生」を全うすることに掛ける。


人生にスペアはないのだ。そしてその肉体にも。
人工的に再生されたものが、生活のQOLを保証するとしても、
全く同じ物を手に入れることができるわけではない。
自分の感覚は自分の肉体と共に在る。
そのことから永遠に解放され、自由になる事はできない。

ベートーヴェン:交響曲第9番

ベートーヴェン:交響曲第9番

小澤の第九 ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調Op.125《合唱》 EJS-1005

小澤の第九 ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調Op.125《合唱》 EJS-1005

普段なら映画を観た後、開放的な気分になることが多いのだが、
今回は少々落ち込んだ。気を取り直して和食の夕食、
本日2番目のイベント、第九のコンサートにシンフォニーフォールへ。
佐渡裕が指揮する大阪センチュリーの第九。
第九を生で聞くのは10年ぶり以上だ。前は、鳴門で聞いた小澤征爾以来だった。


題名のない音楽会』でお馴染みの指揮者は、我が家では「佐渡さん」と呼ぶ。
二つ年下のはずなのに、その長身を滑らかに動かす指揮に比べて表情は更けていた。
久しぶりの第九、おまけに初めての二階席。演奏者がよく見える。
コンサートホールを見下ろせる、良い席。
第一楽章はややぎこちない雰囲気で始まった。
どうも、佐渡さんの動きとしっくり来ないような気がする。
大振りな指揮に比べて音の「のり」がやや悪いような、
楽器がというか、楽団があったまっていないような感じ。


佐渡さんは指揮棒を持たない。ダンスをするように体全体で指揮する。
どれだけセンチュリーと音合わせをしたのだろうか。
府と国の無理解によって存亡の危機に立たされているセンチュリー。
音楽、学問をはじめとする教育の分野、福祉、
全てが切り捨てられ、目先の高速道路無料化(不必要な政策)や、
高校授業料無料化(勉強しない学生が多いのに)などに費やされる。


いかんいかん、目を開けて聞いていると邪念が入る。
演奏の合間暇そうにしている楽団員や、楽器の手入れの様子、
チェリストのやたらに赤い弓の色などが気になってしまう私。
(家人曰く、管楽器に2回ほどミスがあったと後ほどぼやいていた)
集中集中、じっくりと楽しみたい久しぶりの第九。
「21世紀の第九」コンサート。


第2楽章は明るく、軽やかに流れるように滑るように・・・。
自分の記憶の中の、やや硬質なかっちりとした明るさを持つ小澤とかなり違う。
柔らかさと軽さが一緒になって、悪くはないがそのふんわりした層の薄い感じ、
雰囲気に馴染むのに時間が掛かった。
第3楽章に至って、今回の解釈というか曲の流れにやっと沿うことが出来た感じ。
自分の心持ちがやや暗めのままだったせいか、(『アバター』の影響?)
瞑想、それも暗く沈むのではなく明るく視野が広がるような曲想に、
違和感を感じている自分を見出す。


そして第4楽章。一気に溜めていたのか、ここに来て抑えていた音を出すかのよう。
指揮の身振りと音の響きが連動しているのがはっきりわかる。
合唱は思ったよりも小さく歌われたような気がしたのは、楽団員の数と楽器に合わせたのか。
ソプラノはしっかりした通る声で、他の3人を圧倒する響きを持っていた。
4人の声質はそれぞれ個性的で、本来ならばもっと響き合いが欲しいか。


演奏は予想以上の盛り上がりを見せて終わった。
拍手、拍手、拍手。
軽やかで明るい第九の演奏会だった。
外は寒いが月が美しい。
明日は娘がキャンプから帰ってくる。