Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

帰省狂想曲

元旦に義弟夫婦来る。かわいい甥っ子達もやってくる。
娘にとっては唯一の従兄弟達だ。
残念ながら年が離れているので、御守り役になってしまうが。
結婚を機に仕事を辞めた義妹は、舅姑の満足する所ではある。
世の中、皮肉なものでそれが吉と出るか凶と出るか、
人生万事塞翁が馬。しかし、勤めを頑として辞めなかった私は疎まれてきた。


しかし、初詣には家族一団となって産土神に参る。
珍しく娘にお守りを義母から頂く。
甥っ子達は昨年七五三に来たばかりの神社に喜ぶ。
安産の神を祭るが故に、私は再び感謝を、そして祈りを捧げる。
神の前に在ってもなお複雑な心境ではあるが、
それ至らなさ故に神に祈らざるを得ない。

 


結婚当初、お年玉など貰った事はないという家人の言葉にビックリ。
誕生日のお祝いも、カラ手で行き来しないお付き合いの仕方など、
ちょっとしたもののやり取り、潤滑剤となるような気遣い、
そういう日常生活次元に様々な段差が在り、
当たり前だと思っていた人間関係に亀裂が入るほど大きいと・・・大変。
その深い裂け目をあると意識して生活するか、無かったことにしてしまうか、
人それぞれなのだろうが、直系傍系で切り捨てられたり、
噂話も耳に入らぬ、入れられぬ蚊帳の外であったりすると、
積もる落ち葉の垣根が高くなるように、人の心にも敷居が高くなることだ。


娘も従兄弟達も健やかに育って欲しいと願うばかり。
祖父母も高齢、親も高齢、その行く末が気になること限りない。
何しろ同級生は孫を持とうという年齢なのだ。話を合わせるのも難しい。
仕事のやり取り以前に、お付き合いに疲れる帰省狂想曲、
それは、家と家との付き合い以前に、価値観の違い。
目に見えぬカリキュラムに仕組まれ阻まれた、家意識、男女間差別。
跡取り息子がいるいないの、子供が二人いるのいないの、
そういう言葉を涼しい顔で何処吹く風と聞き流し、
でんとした「山の神」でいるには、まだまだ修行が足りぬ私だ。



実家というものは大変である。子供や孫と離れているからこそ、
盆と正月は共にというのもわからないではないが、
自分が逆の立場であれば、なかなかに物凄い接待準備に目が回りそう。
何しろ、老夫婦だけの家に二家族が集うのだから。
我が家は一人娘だが、義弟は男の子二人、やんちゃ盛りだ。
双方年を食っての結婚なので、親にしてみれば心配の種は尽きない。


自分の娘と台所を共にするのであればともかく、
嫁(になったつもりはない私ではあるが)達と台所仕事というのは、
気詰まりなものらしく、手伝いに立つと「緊張するからTVでも見ていて」。
そういいたくなる気持ちもわからないではない。
自分のテリトリーを侵食されるのは、なかなか、ね。
それにしても、当初は何をそんなに豪華にしなければと思っていたが、
最近は質素になってきた。それでいいと思う。
何でもかんでも買ってきてこれでもかと並べられると、
こちらとしてはますます困ってしまうのだ。

 


ご馳走は嬉しいし、ありがたい。正月であれば尚更、その気持ちも。
物足りないでは申し訳ない、食べられないぐらいでないとというもの。
しかし、豪勢なもてなしではなく、「喉が渇けばいつ飲んでもいいお茶」や、
自分で触って動かしてもいい食器、要領よく流れ作業で仕事する台所、
身内だけで何かするではなく、こっそり何かやり取りするでもなく、
思う所を伝え合って、緩衝地帯が存在するのであれば・・・。


御節は持ち寄りぐらいに思ってくれればいいのだが、それも出来ない。
おまけに、我が家とはしきたり、習慣、風習の壁があり、
些細なことで衝突しかねない事も多々。要は、口も出さぬ手も出さぬが一番。
向こう様も心得たもので、食洗器があるから皿洗いには困らない。
ただ、用いる食器の数、種類の多い日本の食卓のこととて、
自分流をそれぞれ持つ主婦と共に作業、本来ならば学ぶ事も多いはずだが、
すんなりそうは行かぬ、そうは問屋が卸さぬ。

 


過去に一度ならず口に出された言葉はしこりとして残り、
「娘しか持たぬ」「一人しか産めぬ」と無言の針の筵は、心身に痛い。
義父の冗談では聞き流せない物言いも、普段どんなことを言われているのか、
勘ぐりたくなくても勘ぐりたくなる内容であったりする。
妻にはなるが嫁にはならぬと固く心に誓う所以は、この他にもある。


家を守るのではなく、人を守るのだと思わねばならぬ時と、
ここは家(顔)を立てる形で動かねばという時と、
従来の戸籍制度に阻まれて苦々しい思いをすること多々。
女家系の何が悪い、一人っ子で何が悪い、
小さな差別が、お年玉や席順や、料理の盛り付け、飾った写真等、
あちらこちらに現れる、その積もり積もったものが、
様々な形で噴出するのに疲れ果てるのが、帰省。

 


男の気遣いと女の気遣いは違うと、つくづく思い知らされる。
哀しくなる。何ゆえに、いわれなく針の筵を敷かれるのだ。
それとても、無意識のうちにそうされているのであれば、質しようもない。
この家で育った「男」である家人には、わからぬ感じぬ物を
私は感じ取って疲れ果てる。
そして口に出さぬ言葉の裏に何万言と隠し置かれた言葉を聴き取り、呻吟する。
それは、向こう様も似たようなことかもしれないが。


家人は家人で自分の思うようにならないと苛立ち、
娘は娘で温度差を感じ取り、次第に自分の立場が微妙なものであることに、
親には親の祖父母には祖父母の葛藤があるのだと知る年齢になるだろう。
人と相見(まみ)えるという事は、一堂に集うという事は、
かくも憂い多きことかと新年早々疲れ果てる。
そんな自分の気持ちと連動するように、昨夜のBSでは消え行く中国の地下都市、
ヤオトンでの生活が紹介されていた。
古い習慣、血族の絆で守られてきた住居、消え行くヤオトン、
忘れ去られる伝統、時代に押し流される村の生活。


私にとっては長い2泊3日がようやっと終わって、
雪の見えるサービスエリアでほっと一息。
残念、以前のようにひこにゃん福袋はなく、ゆるキャラ福袋のみ。
「買うんじゃないの、見てるだけ」のお土産を写真に収め、
職場や自分の実家にお土産を買い求め、夜も遅くに帰り着く。
運転お疲れ様。緊張が解けてだれているのは、ゆるキャラではなく、
私たち家族そのもの。その人生修行至らぬ私たちに福はあるか。
残り福ではない「福」はあるか。