Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

ストレッチャーが運んできたもの

やっと金曜日が来た。しかし、もうひと踏ん張り。
今日は久々に臨床系のワークショップがある。
少しずつテンションを上げないといけないか、
それとも仕事を終えてから徐々に上げないと持たないか。
民間の促成栽培型の心理関係・メンタルトレーニング講座と、
半民間のワークショップ・講義・実技連携型講座と、
大学でのオーソドックスな講義・実習・論文の揃った講座と、
どれも経験しているものの、みんな一長一短ではある。


促成栽培型は「自分にも心理療法的なアプローチができる」的な
錯覚を生み出しがちだが、社会人感覚が欠如した人間には向かない。
職場で実地訓練を同時進行でという形での育成は、
一般企業の素人を仕立て上げる過程と余り変わらないから、
よほど本人の意識が高く、絶えず訓練を受け続けないと、
型に嵌った最低限の理論と応答だけで、融通が利かない人材育成法でもある。
もっとも、時間とお金を掛けずに短期療法的に、
コーチングの側面を生かすならば、それも悪くない。
受講生のモチベーションさえ高めれば、それなりにモノになる。


ただ、文学的に哲学的に学者肌的に分析が好きな人間には、
オーソドックスな臨床講義とワークショップは、
発見の連続で楽しいかもしれない。
認識を新たにするというよりも、知っている(と思っているはずの)事を
いかに色んな形で把握しなおすことが出来るか、表現できるか、
そのためのワークショップだから、まあ気楽に行こう。
そんなふうに考えている朝。肩に力を入れると持たないからなあ。

実践・“受容的な”ゲシュタルト・セラピー―カウンセリングを学ぶ人のために

実践・“受容的な”ゲシュタルト・セラピー―カウンセリングを学ぶ人のために


再来週の娘の授業参観までに、仕事を休む段取りが付けられるかどうか、
朝から頭の中はあれやこれやとこんがらがっている。
昨日のうちに今日のおかずを作っておいて良かった。
娘は朝からカレーでニコニコしている。
本当にカレーが好きだなあ。朝から会話も弾む。


え? ストレッチャーと担架は同じかって?
うん、まあ同じかな。どちらかというと漢字で書くと担架だから、
手で持って担いでという人力頼りのイメージ。
ストレッチャーだと、車が付いていて敏速に患者を運べるイメージが強いかな。
え? 何々? 担任の先生がストレッチャーを知らなかった? 
そんなこと無いでしょう。どうして、そんな話になったの?


社会の教科書に消防署について習った。消防署には、救急車もある。(なるほど)
先生が「消防車の役目は?」「救急車の中にはどんなものがある?」と訊いた。
「ストレッチャー」と元気よく答えた娘に、担任が「それは何?」と。
うーむ。去年の夏、K大医学部小中学生オープンキャンパスの折、
救急車(ドクターカー)に乗せて貰った娘としては、張り切って答えたんだろうなあ。
せっかく先生にほめられると思ったのに、ちょっと残念だったね。
この話には、まだ続きがあった。

なぜ救急車が通り過ぎるとサイレンの音が変わるのか (宝島社新書 255)

なぜ救急車が通り過ぎるとサイレンの音が変わるのか (宝島社新書 255)

エアレスキュー・ドクターカー (プレホスピタルMOOKシリーズ)

エアレスキュー・ドクターカー (プレホスピタルMOOKシリーズ)



娘の担任の先生は、大学出たての初々しい先生だ。
とてもよく頑張っているが、何しろ経験がものを言う世界。
全教科を教えるのは至難の技だろう。
普通は1時間の授業に2時間の予習が当たり前と言われる教師の世界。
その時は、年配の指導教官が付いていたらしい。
そして、すかさず担任の先生に「ストレッチャーは担架のことですよ」と
耳打ちしたらしい。あちゃー。「担架」って最初から言えればよかったのか。


教育の世界ではこういうことはよくある。生徒は元気よくやる気満々で答える。
でも、予想・予定していた答と違っていたりすると、受け入れてもらえない。
教育の世界は「求められる答」は一対一対応ではないのは分かっていても、
あくまでも理想。予定された展開に基づいた答を答えた生徒が、「よし」。
横槍を入れたり、違う答は訂正と解説のテクニックを必要とする。
生徒がちゃんと答えても、その場で正答とみなされなかったり、
すぐに適切なコメントを入れて貰えない時もよくある。
それで、傷つかずに済めばいいが、いかんせん、敏感な子どもであれば、
こういうことが積み重なると、やる気を失くしてしまう。
もしくは、変に自意識過剰になったり、敵意を持ったり、反発したり、
自分の方がよく知っているのに、正しいのにと思ってしまう。


「担架」という言葉、日本語の答を説明できて良かった。
そして、オープンキャンパスの時は、救急車から直接病棟に運べる
最新式のストレッチャーを知っていて、良かったねと話が出来た。
担任の先生は全てを知らなくても構わない。
それは恥ずかしいことではない。親子が共に成長しながら親子であるように、
教師と生徒もお互いから学ぶ、お互いから教えられるのだから。
教師も生徒もこれから覚えること、知ること、たんとある。
ほんの些細な出来事で、両者気まずくなることを、親としては最も避けたい。


それに、こんな会話のやり取り、親子の間ではしょっちゅうだ。
子どもの世界の単語は、親には? 何て当たり前だし、
おそらく教師と生徒の間でも? のオンパレードだろう。
しかし、知識の有無の基準、合っている間違っているの基準に照らし合わされ、
一定のレベルに達していないという画一的な見方をされたり、
変に知識偏重で頭でっかちであると評価されてしまったりしたら、
「好きこそ物の上手なれ」であれこれ特技や知識を持っている物は、異端視される。
そういう事だけは避けたい。


人との差違、感覚の違い以前に、知識や経験の差違は当たり前。
共有できる世界を作る為の過程で、(小学校までは特に)
「ああ、それもそうだね」と受け流して貰える、
受け入れて貰える経験を積むか、○×で序列化されるかでは随分異なる。
受験教育がえてして批判されるのは、序列化を差別化の同等に取るからであって、
決してゆとり教育が、序列化や差別化を生み出さないかというと、全く異なる。
誤解している人は多いようだが。


ともかく、娘は担架とストレッチャーとが結びついたわけだし、
他の生徒も、そんな言い方もあるんだと思ってくれればいい。
先生もさらりと流してくれればいい。
こまっしゃくれた物言いをする子だと言うレッテルを貼らないで欲しい。
親の願いはそこに在る。教師の視線の先、批判や評価を含む一挙手一投足を、
子ども達は敏感に読む。ましてや小学校であれば尚更だ。


若い先生はベテランと違って、生徒の評価に対する基準が定まっていない。
経験値を積んで瞬時に判断するよりも、様々な事例に遭遇していることの方が多い。
その事から学んで欲しい。画一化された機能的な判断に至る前の、
混沌とした事例から、様々な場面を想定し、どのように受け答え、受け入れ、
授業を組み立てていくか、評価の壁に子どもを叩きつけないで欲しい。
そんな事を思いながらも複雑な心境。


私が子どもの頃なんて、ストレッチャーなんていうカタカナ言葉知らなかった。
医療現場では、昔から使っていたのかどうかさえも知らない。
普段の日常用語でないことは明らか。まして、子どもが知っていたら、
やっぱり!?になってしまうのか。
チーム・バチスタの栄光』『ジェネラル・ルージュの凱旋』を読み、
両親と一緒に映画を見に行く、少々おませな10歳の娘には、
「ストレッチャー」は、親や教師が思う以上に、使用可能な語彙だっただけ。


不惑の子どもに教えられることは多い。
負うた子に教えられることは多い。
子ゆえに道に迷うことも在る。
親馬鹿はちょっとしたことも「深読み」してしまう。
クラスで毎日ひと悶着ある子ども社会での難しさ、
今から人としても教師としても成長して行かなくてはならない
新任教師の来し方行く末にチャチャを入れるつもりは無いが、
私の年齢が年齢なのだ。孫がいてもおかしくない小4の母なのだ。
どちらも子どもみたいなものだから、余計にそう感じるのだろう。


夜のワークショップでも、15,6年ぶりに会う講師の先生は、
かつてのアクが抜け、やや枯れておられたのでほっとするような、
寂しいような気持ちになりながらも、こちらも気楽に。
初回から余りがつがつとエネルギッシュにやられたら、持たない。
それにしても、自分も老いた分距離が取れるようになって来たのか。
生徒として、受講者として、参加者として成長した形で、
ワークショップに関与できるか、自分次第。


いつも学ぶ者の立場で、教える者の立場で。
レトリックの基本のような、今日の朝と夜。
朝の親子の話題、娘との会話からストレッチャーが運んできたものは、
運ぶものと運ばれるものとの関係、
学ぶこと、教えること、参加することの意義。
人の手で運ばれたものに車が付いて、スピードを増すように、
私の心の中で「何か」が駆け抜けた一日。

気づきのセラピー―はじめてのゲシュタルト療法

気づきのセラピー―はじめてのゲシュタルト療法

記憶のゴミ箱―パールズによるパールズのゲシュタルトセラピー

記憶のゴミ箱―パールズによるパールズのゲシュタルトセラピー