Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

ラスクラスクラスク

仕事は淡々と進む。というよりもこなしている。
ここまで来ると、事務仕事を行う、行事をこなす、
歯車として役割をこなす、
最低限の部品として嵌め込まれている感じ。
そう、感情や感覚で動くのではなく、テキパキサクサク。
殺伐とした印象を与えるかもしれないが、大きな物事を一気に片付ける時は、
手順とマニュアルに従い私情をさしはさまず、こなすのが一番。


そういう感情や感覚から最も遠い所に自分を置いて仕事をこなす、
その日の朝が徹夜明けというのはきつい。
始発電車に乗り、南から北へ、来たから南へ戻る。
それでも、始発電車には結構人が多い。
朝の5時に電車に乗るには4時台に起きて当たり前。
今から旅行に出かける風体の人、いつもの仕事に出かける人、
様々な人と一緒に運ばれていく自分。
痛む足を引きずりながら、タクシーのいない早朝の駅に舌打ち。


最も始発の早い最寄の地下鉄駅まで、車で走る真っ暗な朝。
凍え切った体で歩く薄暗い道。しっかり混み合う通勤列車。
既に誇りっぽい朝の駅の階段を上り、駐車場から車を出し、職場へ。
淡々と仕事をこなす朝。パソコン上の画面だけに集中する時間。
人とは顔を合わせない時間。しばらくすると人の顔ばかり見る時間。
体が半壊、いや、半解凍の冷凍食品のよう。
凍りついたまま動いているのが不思議な感じがする。


暖かい食事が食べたい。何か、暖かいものを。
こんな時、娘の入れてくれる紅茶と甘いラスクを思い出す。
ラスクラスクラスク。思えば、頂き物があって
2月3月のおやつはラスクが一番多かった夜のお茶の時間。
高級なラスクが巷では流行っているが、
私にとっては母が揚げてくれた食パンの耳に砂糖をまぶした味、
懐かしいお袋の味に近いラスクが好ましい。



どういうわけか、到来物のお菓子が多かった年末新年。
実家の両親は高齢だから食べ切れない。
なのに、昔の習慣というものは恐ろしいもので、
来客が無い限り、頂ものを自分たちで食べるという事をしない。
分不相応だと思っているのだろうか。
頂き物は高級で、普段使いでは無いという感覚が染み付いている。
無論その感覚は私にも受け継がれているが、
実家で山のように食べられなくなった食品を始末していると、
これこそが資源の無駄遣いと思えてならない。


自分たちが食べないならば、お下がりにすればいいのに、
しまいこんで忘れてしまうのが、年寄りの常。
油のすっかり回ってしまったクッキー。
ねずみに齧られたおかき。
賞味期限が切れてしまったお惣菜などなど。
勿体無いこと限りが無いのだが、
年寄り二人では食べ切れないというのもわかる。
日常生活、食べなれたものしか口にしなくなり、
「珍しいもの」をそのまま放っておく両親。


こともあろうに、頂ものの上等なラスクもテーブルの下。
箱に入ったまま積まれていたので、今年は失敬した。
初めて食べたここのラスクは、贅沢なティータイムを演出してくれる。
フランスのお茶会、「グーテ・デ・ロワ」(王様のおやつ)、
贅沢で楽しいこと、その名の通りプレーンだが美味しいラスク。
ホワイトチョコレートをコーティングしたホワイトラスク、
娘が事のほか喜んだ、金粉がのっかったチョコをコーティングしたプレミアム。
(これは11月から4月までの限定販売)


2月から3月に掛けて、公私共々殺伐な気分の時、
今年はこのラスクが私を慰めてくれた。
娘が生まれる前後、お世話になったのはこちらのラスク
プレーンなものから、ガーリックやメープルといった味わいまで様々。
昔懐かしい母のおやつを思い出させる、揚げパンの味。
砂糖をまぶしたおやつを思い出させるラスク。


・・・家人もラスクが大好きだ。
甘いラスクを食べながら思いだすの母の味。
甘いものが好きな家人と過ごしたティータイム。
ラスクラスクラスク、犬も食わない喧嘩をした日々のラスクよ。
凍えた体を温める熱いお茶と甘いお菓子を夢想しながら、
仕事を淡々とこなす、冷たい心の一日。
ハートの形のラスクの甘さが恋しい一日。


1枚ずつラッピングされた上等なラスクでなくていい。
普段使いの気さくな味でいい。
カリカリと香ばしい甘いラスクが恋しい日々。
特別な事を望んでいるのではない、当たり前の寂しさを、
当たり前の甘さ暖かさで包んでくれる、
そんなお茶が楽しめる日々を恋しく思う。
ラスクラスクラスク。