Festina Lente2

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雨に痛み増す節々 

朝から雨、土砂降り。今年の春は雨が多い、多過ぎる。
昨日の爽やかな天気は何処へ行ったのか、
洗濯物もこれでは乾くまい、というよりも、
休日何処にも出かけるなよ、の勢いで降り続く雨。


長靴がいるほどの雨。しかし、家人宅には長靴は・・・?
今日は久しぶりに時間を作って勉強会に出かけようという、
この気持ちが萎えるような雨に、何だかなあ。
それでも気を取り直して出かけてみれば・・・。
いつもは盛況だった勉強会には人がいない。
嘘のように。ちょっと唖然。


実習形式だからか、講師の持って行き方のせいなのか、
久しぶりに来てみたので要領がわからない。
勘が鈍っているというべきなのか・・・。
出かけて来た時はやや小雨だったのに、
帰る時には再び目も当てられないほどの土砂降り。
久しぶりにズボンの裾を濡らしながら、ソフトカイロへ。

誰でもできるトリカ゛ーホ゜イントの探し方・治し方

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痛みと鎮痛の基礎知識[下]臨床編 ~さまざまな痛みと治療法 (知りたい!サイエンス)

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この雨では客足も何もあったもんではなかろう。
予想通り私だけなのですぐに診て貰えた。
ここの先生、お兄さんは整骨院の先生よりも割高だけれど、
診察後しばらくの間は確実に体の調子がいい。
筋肉を揉みほぐすというよりも、やはり、体の歪みを調整する感じ。
デスクワーク、いつもの姿勢、ちょっとした歩き方、
昔の交通事故やすっかり変わってしまった今の体型・体重や。
痛みや足の長さの差を感じる度にお世話になってメンテナンス。
家から近ければもっと頻繁に来たい所。


足底板を付けていても一時しのぎで、一向によくならない左足。
整骨院でもここでも、整形外科の先生とは異なり、
かかとの痛みに対してこの足底板の効果にはやや疑問。
私自身、腰や足の長さに違和感を感じるのは、
長時間のデスクワークや、心理的な緊張が続いた後だ。
おまけに長時間歩いた後というよりも、休んでいて、
つまり、眠っていたり座っていたりした後、席を立ち、
一歩歩き出そうとした時に、ズキンと響くかかとの痛さ、
足裏の痛みだ。これはいったいどうすれば?


体重を掛けなければ、だけの問題ではない。
靴屋でもソフトカイロの先生からも、
「こんなに甲高の足だと疲れるだろうねえ」と言われる私の足。
それでも、どんな出張でも歩いて平気だったのに、
大台に乗ってからはどんどん体が硬く、疲れやすさに加速、
肩こり背部痛、腕や体のだるさは当たり前。
歩くと痛い足裏のオマケ付き。年はとりたくないもんだ。
老眼だけでも十分だというのに。


昨日国立国際美術館ルノワールと共に見た、
「死なないための葬送―荒川修作初期作品展」を思い出す。
題名に反して皮肉なことに、荒川修作は先日亡くなったばかりだ。
2010年5月19日午前0時35分(現地時間)、ニューヨーク市内にて逝去。
享年73。芸術家の死としては、まだまだ若い。
「死なないための葬送」展示中に、作者が黄泉の国へ旅立つとは。

その初期作品群は、どう見ても棺おけの中に収められた、
様々な品々―生きていることを呪いつつ、更に、
死すべき命であることに抗いつつ、予め用意された身の丈の棺の中で、
静かにのた打ち回っているような、そんな作品群だったのだ。
自分の体の一部があちらこちらで断線、故障していくように、
見える所で傷み、見えないところでも傷み、廃れていくように、
食事や運動に気をつけても進んでいく老眼は止められないのと同様に、
確実に収束していく一点に向かっている自分に、
ため息を付く時間。


痛みは生きていることを思い出させてくれるが、ありがたくない。
「痛くても青竹踏みを続ける方が、足底板よりも痛みを軽くするよ」
というソフトカイロの先生の言葉の方が、
痛み止めしかくれない医師よりも、もっともだと思える。
一時的に痛みを止めるだけで、ずっと装具が必要な体になるには、
早すぎるじゃん・・・。


妊娠前の昔の体重に戻しても、筋トレしても、
足の痛みは変わらない。雨の日の頭痛もけだるさも。
ならば、どうすればいいのか。
「降れば必ず土砂降り」のことわざみたいに、痛みと分かち合う日々を?
「死に抗い、死そのものを葬り去って生き続ける人間の可能性の探究」
なんて、芸術家のように試そうとは思わない。
雨に痛み増す節々に、苛立つ時間を少なくしたい。
痛みから少しでも遠ざかり、雨に濡れてもいずれ乾くように、
できるだけ快適に生活して生きたい、それだけ。

ヘレン・ケラーまたは荒川修作

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建築する身体―人間を超えていくために

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