Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

ルノワール展へ行く

久しぶりに美術展。午後待ち合わせて遅めのランチ後、
散歩しながら中の島を親子三人で歩く。
予想外にすいていた国立国際美術館で、
久しぶりにルノワールに再会。


「伝統と革新」「ルノ」と題されると少々違和感。
どうしてただの「ルノワール」じゃ駄目なの?
どうしてそんなに対立概念を表だって出さないと駄目なの?
「ルノ」なんて言い方だと身近に感じるわけ?
どうしてそんな風に省略しちゃうの。
そんな風に軽く違和感。


午前中、娘は水泳の試合の飛び込み練習のせいで
眠気と戦いながら鑑賞することになった。
最初の風景画群は「眠気を誘う」ほどのんびりとしている。
娘いわく「やわらかい色彩の絵ばかり見ていると、眠くなる・・・。」
その気持ち、わからんでもない。
「幸福の画家」と称されるルノワールの筆遣いには、まったり感が漂う。
その色合いも柔らかなタッチも、独特な量感・質感
塗り重ねられた景色の向こうに、溶け込んでしまいたくなる。


ルノワールの絵で、肌の色を強調したオレンジがかった色彩を
温かみと見るかくすんでいると見るか、微妙なところだ。
それにかわいい女の子だと思って見ていると、
女装に等しい男の子だったりするわけで、
少々娘は混乱しながら見ていた。


しかし、買い求めた絵葉書を見てみると、
落ち着いた色合いの風景画や、
ダンスしているユトリロのかーちゃんの若い頃を描いた作品など、
自分なりに選んでしっかり買っていて、ふうんと思った。
眠いを連発しながらも、ちゃんと見るべきものは見ていたらしい。

追記(6/6) 
読ませていただいているブログの中でも
凝りに凝っている「晴れときどきドキドキうきうき」の6月4日の記事。
http://banban0501.exblog.jp/10714732
まるでフランス旅行に出かけて、ルノワールを堪能してきたような。
どうぞ、合わせてご覧ください。とっても素敵ですよ。



風景、裸婦、少女、親子、ダンス、湯浴み、
一目見るだけで、「ああ、ルノワールだ」とわかる特徴のある絵。
ユトリロを連想させたり(ユトリロの方が影響を受けたのだろうけれど)
セザンヌっぽい色合いだったりする絵。
彼の生きた時代、同時代の周囲の人々、影響された景色、風土、
そういうものに思いを馳せながら、彼を思う。


リューマチに悩まされつつも、
なぜこんな風に明るい色彩を追い求めたのか、
いや、痛みがあるからこそ、この明るさを切望したのだと、
考えさせられる今日の鑑賞。
そう、若い頃のように作品そのものばかりに目が行く、
そんな鑑賞ができなくなってしまった。
単純に作品世界の中に溶け込んでいくのが、難しくなって来たとも言える。


画家の優しいまなざしを、ひたすら作品の上に写し取られた人々の、
在りし日々を、来し方行く末を、彼との繋がりを、
彼が何を思い、感じ、描いていたのか。
その創作過程、時間を想像するのに興味関心が傾き、
絵の中にすんなり溶け込んでいくのが難しい。
これは、年のせい? たまたま今日の体調のせい?
自分の足の痛みの上に、毎日の生活が載せられているので、
どうしても体を通して物事を見てしまうから?


ルノワールへの旅 身体表現 花と装飾画 ファッションとロココの伝統、
4つの章立ての元に構成された展示が、
余計にあれこれ考えさせることになったのだろう。
仕立て屋の息子として女性のファッションにも造詣深かった彼、
色やデザイン、素材や流行そのものに敏感だった感性が、
画家としての彼に大きな影響を与え、強みともなり、
人々を惹きつける作品となっていったのだろうから。


還暦を過ぎて得た三男から受けるインスピレーション、
家族や景色から与えられた創作エネルギー。
実感として胸にこたえる年齢になってきたのか、
遅くに子供に恵まれた自分も、幼子の命の輝きが、
どれほど眩しいものか、改めて意識させられる。


第一次世界大戦の影響で負傷した息子たち、
その見舞いのショックが死期を早めたのか、妻に先立たれる。
(糖尿病が悪化とあるが、無理をしたのだろう)
幸せの画家といわれているルノワールの晩年は、
大戦と共にすさんでいく欧州にあって、
病に冒されながら大変だったと改めて思う。

幸せって何だっけ、何だっけ?
簡単に一言ではいえないけれど、
家族が家族であることは、幸せのひとつの要素。
そんな思いに浸りながら、休日の午後。
暑い暑い夏日となった大阪。
夕食後、思わずアイスクリームを買い求めた、
皐月の二十日あまり二日。

ルノワールの絵本―ないしょかな? (小学館あーとぶっく)

ルノワールの絵本―ないしょかな? (小学館あーとぶっく)