Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

冷泉家王朝の和歌守展

冷泉家王朝の和歌守(うたもり)展、良かった。
http://www.asahi.com/reizei/
明後日までと聞いていたので、やっとの思いで出かけた。
京都に出かけるのに、気合が必要になって来たのは年のせい?
それはともかく、圧倒的に年齢層が高いのは展覧会の内容のせい?
歌の道に精進しておられる方々が多いから?
それとも書道関係の方が多いから?
全く門外漢は、少々場違いなところに来てしまったのかと、
いつもの展覧会の風情との差に、どぎまぎしつつも鑑賞。


冷泉家の御文庫の中に残されてきた書物の、なんと雅で美しいこと。
侘び錆びもそこはかとない華やかさとなって、目の前にある。
普通なら? と感じてしまうものさえも、謎めいた文様のよう。
何が・・・。そう、虫食いの跡、紙魚の住処と化した多くの古文書、
家の集といわれる、私家集。色褪せていても今も美しい料紙。
水茎と称された流麗この上ないたおやかな筆の跡。
もしくはどのような人物であったのか、自らの筆跡を蔑み、
「鬼のような」と称した藤原定家の直筆のもの。
貴重な文化遺産を目にして、ちょっと興奮。


書道・和歌は門外漢だが、歌の持つ世界は好きだ。
個人の歌を集めた家集が、どっさりと並べられた展示は圧巻。
生きている文学史六歌仙三十六歌仙、勅撰集、
あのコンパクトな「みそひともじ」の世界に凝縮された、
果てしない広がりが好きだ。
人の思い、情念が渦巻く薄い冊子、綴じ本に、
何ともいえぬ思いがよぎる。


誰がどれほど読み返したか、誰に貸されめくられたのか、
手擦れの跡が残る紙片、頁の片隅、コピーが無かった時代の本。
オリジナル一巻本。限定本。人に書かせようが、自分で写し取ろうが、
一首一首を写し取らねば残すことはできぬ、手元に置くことはできぬ時代。
その情熱が漂う世界にうっとりし、また、頭(こうべ)垂れる思い。
先人の残した偉業、普段ご縁の無い歴史上の人物が、
ただただひたすら日常の時間を費やして遺した偉業に驚嘆。


残された歌、語り伝えられた歌人は幸福だ。
何種歌を詠もうが、どれほど情熱を傾けようが、
誰にも知られず遺されず、賞賛されることも無く消えた歌、
忘れ去られた歌人とて多かったはず。
京の都にあってこそ知られても、地方の文化は闇の中、
和歌はたしなみとはいえ、洗練されるためには場が必要。
「歌の家として仕える」ことに徹する姿勢を以てして、
今に生き延びることができた冷泉家の家宝と人々。
和歌の世界の伝統。
そういうものに、ほんのしばし触れた2時間。

冷泉家・蔵番ものがたり 「和歌の家」千年をひもとく (NHKブックス)

冷泉家・蔵番ものがたり 「和歌の家」千年をひもとく (NHKブックス)


朝からスーパーバイズを受ける資料を整理し打ち直し、
昨日一昨日、現実逃避のレイトショーで遅れた分を取り戻す。
出張に出かけたついでに思い切って飛び込んだ冷泉家展、
やはりもっと時間を取って見るべきだったと後悔の念。
しかし、出張で出られる時間を有効に使い、
休暇と結び付けて出てきた甲斐はあった。
京都から大阪市内とあちらこちら移動した本日、
さすがに疲れたが、1日1箇所しか回らないのでは、
仕事がはかどる筈も無く。


かって知ったる訪問場所、相手の居住まい佇まい、一挙手一投足、
真面目なというべきか、きちんとしているというべきか、
当たり前の対応というべきか、出先によってその対応が異なるのは、
社風なのか、何なのか。出張に出る度に勉強させられる。
仕事を終え、勉強会に出向き、規定の最後のスーパーバイズを終え、
何だか達成感というよりも、もやもやとした見えない出口ばかりが
あちらこちらに広がっている、そんな感じばかりが募る。


何かを学び、知り、あれこれ思いを馳せて、経験値を積むのは
決して悪いことではないはずなのに、勉強を始めた時のような、
わくわくする興奮や楽しさ面白さ驚きは無く、
闇の深さやおどろおどろしさ、変わっていかない世界の鬱陶しさ、
繰り返される愚かしさばかりが降り積もっていくような、
そんな徒労感ばかりが募るのは、まだまだ修行が足りないせいか。


リアルタイムの日記を書かないのは、異常なアクセスから、
自分自身のリアルタイムな感情を反映させないためだけれど、
冷泉家に残された昔のツィッターとも言うべき、
凝縮された芸術的ツィッター、和歌の世界に学ぶべき、
今ここにあること、今ここから発信したい思い、
相手に届けと心の底から願ったみそ一文字の世界に、
思いを馳せながら今日の一日を閉じる。
同じ仲間で勉強会を開くことは、もう無いだろう。
学ぶことで私たちは成長し、変化してしまった。
それぞれ進んでいく道は、もう、別々なのだから。


折から今日観た冷泉家展の七夕のしつらえが思い出される。
世を徹して行われた風流、乞巧奠(きっこうてん)の祭壇を思い出した。
「星の座」を華やかに飾り、男女で歌の応答。
牽牛織女をお慰め申し上げる雅な宴。
でも勉強や研修の世界には、守り伝えていく伝統は無く、
その場その場に対応するマニュアルに匹敵する経験値を、
磨き上げていくだけの、凄まじさばかり。
凄まじいというか、心満たされぬやるせなさばかりが募る。


雅なみそ一文字は命を掛けるほどのやり取りの場だったと、
知識の上では知っていても、今はただ静かな伝統の世界にたゆとう。
学ぶことや知ることの切なさは、いつかはそういう静かなものに、
心落ち着かせるものに、変わって行ってくれるのだろうか。
スーパーバイズは無駄ではないが、心の底に溜まる澱は深い。
和歌の世界は、伝統の世界はそれさえもずっしり支えるほどに、
奥深い力強さを持っているのだろうかと、思いながら帰宅。
それにしても忙しい一日、長い長い一日だった。

冷泉家歌ごよみ―京の八百歳

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京都冷泉家の八百年 ~和歌の心を伝える

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