Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

Sandplay Therapy

久しぶりに骨太の勉強会は実に刺激的。
といっても、かつて学んだオーソドックスな方法とはかなり異なる。
それは、自分にとっては心の領域を侵されかねない危険な感じがする。
相手をどれほど信用できるか、ラポールが掛かっていなければ難しい、
しかし、魔術師ではないのだから相手の心を自分に引き寄せる、
安易で安直な方法などどこにも無い。


勉強会は、一つのスタイルを学ぶ上で、
安全で守られた空間の中で、決まりごとを持って行われる。
秘密の保持であったり、守秘義務であったり。
モデルケースとして提出されるものも、現実をそのまま提示するわけではなく、
何かに置き換えたり、わからないようにするのが当たり前であり、
あくまでも、ケースとして取り扱われる、が、
デモンストレーションとなると話は別で、それはそれで刺激的であると同時に、
よほどのことが無い限り、大丈夫だと思うものの、
安易に素人が遊び半分にするものではないと思っている。


遊びなのよ。一緒に遊ぶの、その時をその場を楽しむの。
それは、その人だからできる技法であって、
寄り添うことは共に楽しむことだと言葉の上で了解するのと、
その場で直面するのとでは違う。
一見「遊び」に置き換えることで、安全を確保する。
そのための箱であり、庭である。限られた世界。
ただ、砂の上に繰り広げられる、枠の中で展開される物語に、
どんなふうに近付いていけるか、何と見て取るかは訓練次第、
何を学ぶかはその人次第ではあるのだが。


色んな勉強法があるのだから貪欲に学べばいいとはいうものの、
勝手が違うと、やはり戸惑う。
自分が慣れ親しんだ方法と異なると。
保守的なのかもしれない、様々な、独自の、自分にあった、
果てしない広がりを持つヴァリエーションがあるのかもしれない。
しかし、基本を知らずに応用から入っていく、
その自由さと気軽さから、何か、誤解していないか、
周囲を見渡して不安になってしまう私は、臆病者なのか。


本格的に学んだとは言い難い、知識も理論も中途半端なままで、
消化不良のままでも学ぶことは必要だからなのか、
門戸を広げることが学びの場の敷居を低くし、
世界を広げることになるのか、
憧れや生半可な学習、興味本位の覗き見根性で、
ずかずかと踏み入ってしまうのではないか、そんな恐れが付きまとう。


自分の心の奥底をこじ開けてしまうような可能性もあるものを、
ひいては人の心をこじ開けてしまう可能性があるものを、
そんなに人の目に晒してもいいのだろうかと。
勉強会だからと安易に公開してしまうのはどのようなものか。
その場をどのように守っていくのだろうか、その構造の枠組みを、
見て取るのも勉強であり学びであると言われればそれまでなのだが。

箱庭療法入門

箱庭療法入門

河合隼雄と箱庭療法 (箱庭療法学研究)

河合隼雄と箱庭療法 (箱庭療法学研究)



促成栽培過ぎる。私が臆病だからそう感じるのか。
日本人受けする、誰もが馴染みやすい、「Sandplay Therapy」。
私はざらざらの砂が好きではないし、その場に集められているおもちゃにも抵抗がある。
オーソドックスな方法に慣れすぎているのかもしれない。
でも、個人的な思い入れの混ざった砂は、自分の思いを跳ね返すような、
無機質で何の色にも染まっていない砂とは異なるし、
おもちゃの類も大きく荒々しく感じる。
それは全て、自分の心の状態を投影するからだろうと言われれば、
それまでなんだろうけれど。


人の技を見るのか、その技法を、言葉掛けを、展開していく様子を。
その人の視線の先を見るのか、動かし方を見るのか、
クライエント役を?
もしも自分だったらどんなふうに、もしも自分だったら何ができる?
もしも自分だったら?
迫力と緊迫感に満ちたデモンストレーションは興奮させるショーのようだ。
そして、その中に巻き込まれていく自分を、セーブする自分、
冷静に周囲の様子と対峙する人間の様子を見比べている自分がいる。


学ぶということの、学ぶ場の熱い熱気と興奮は、
眩暈にも似た高揚感をもたらす。されど、その熱気は
永続するものではなく限られた時間、限られた空間で行われるもの。
その熱気は麻薬のように見るものの心を魅惑させるが、
その影響力は心の中に食い込む、しだいに根を張り目を出し伸び行く、
不思議の種。
扱い方次第では無防備にはびこり、心に茂るイラクサ
綿毛を飛ばすタンポポ、香りのしない花、開かぬ蕾、
果てしなく続く麦畑、散ることの無い桜、
幻惑の中に再現される願望、エロスとタナトス


自分を委ねて自分を見出す過程、繰り返されるごっこ遊びの向こうに、
死と再生の儀式、破壊と創造の過程。
それをどのように見立てていくのか、成立させるのか。
自らが繰り広げる物語をどのように終結させるというのだろうか。
勉強会が終わってからが本当の勉強会。

懐かしさも感傷も、自らを切り捨てて切り刻む。
自分の中で果てしなく続く物語に向き合う勉強会が始まる。
果てしなく自分を苛立たせる、癒すように見えてゴールの無い旅、
「ここまで」と思い切ることの潔さ、「これから」と奮い立たせる勇ましさ、
そしてついに、「これこそが」と思い至る洞察、
そのような力を求める為に、高める為にその緊張に、
その魅力に引き込まれて止まない素質が、
集中力が、今の私にあるだろうか。


そう自問自答しながら、危うい思いを抱きつつ、
周囲を見渡す。
時代が変わり、勉強の仕方が変わり、
その向こうに、自分は行きつくことがあるのだろうか、
かつて求めていた世界に少しでも近付くことができるのだろうか。
ただただ自問自答しながら、疲れ果てて家路を辿る。
そんな勉強会の夜。

現代箱庭療法

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カルフ箱庭療法

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