Festina Lente2

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行事の片隅で

ウィメンズセンターが25周年ということで、お手伝いがてら覗いてみる。
女と健康フェスティバル。豊中までは遠いなあ。
神戸で生まれ育ったので、日本語が達者なエリザベス・ミラーさんの講演。
性暴力と10代のデートDVに関する専門家/小児科医の話は、
実際の聞き取り、面接、治療、カウンセリング、現場で係わる人間にとって、
貴重な体験談が溢れていて、思い当たることが多かった。


シンポジウムの内容は、中座していて良くわからなかったのだが、
その後の『女たちの反逆』というトルコ映画は面白かった。
どこの国でもこんな風にして目覚めて、自分たちの権利、自分たちの生活、
体、性、信念を守り貫こうとする動きがあったのだと、改めて意識させられた。
その運動を中心になって行ってきた先輩たちは、身に積まされるものがあるらしく、
涙無くしては見られない場面もあったようだ。


が、しかし、『戦争知らない子供たち』よろしく
「後れてやって来た私」にとっては、
傍観して振り返る歴史なので「そうだったのか」と思いながらも、
感慨に浸ることはあっても、根底から強く揺さぶられるというものには程遠く、
自分は何も知らないでのほほんと大きくなってきたんだ、
のんびりこの年まで来てしまったんだという、恥ずかしさ、
いたたまれないような、この場にどうしているのだろうという場違い感、
情けなさのようなものが大きく膨らんでいくのを否めなかった。

刺繍 イラン女性が語る恋愛と結婚

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ウィメンズセンターの25周年。先輩たちの歩んできた道を垣間見た。
この場にあって、感極まっている人々の中にあって、
先輩たちの努力をただただ享受しているだけの自分に、
何だか後ろめたいような、何のお役にも立っていないような、
そんな気持ちになってしまって、ちょっと気が滅入る。


自分にできている事は何だろうといつでも思う。
立ち位置がぶれている以前に、どこに立とうと思っているのか、
何を前面に押し出して行きたいのか、究極の覚悟なしにいる、
そんな自分のあやふやさが、離人症にも似た感覚で私を包む。
いつもそうだ。大きな行事・企画に取り組んだり参加したりする度に、
どうして私はここにいるのだろうと不思議に思う。
とても場違いな感覚、居心地の悪さに戸惑う。


身も心も捧げて、打ち込んで、仲間を作って、
世の中を、周囲を、自分と自分の知り合いから、
新しい風を送り続けていくその生き方、その姿勢、その意気込み。
そういうものは私には無いようだ。
何かがすっぽりと欠落しているように、自分は空白だ。


何かに係わっているような、係わっていないような、
主役で中心になって動いているわけではないので、
こんな風に感じてしまうのか。
単に問題意識が希薄なおじょーさん感覚で動いているからか、
問題だ山積している現場にあって、心に蓋をして動く、
そうやって自分を守ることを無意識に続けてきたから、
開きめくらになってしまっているのか。


自分の中には達成感というものは余り見出せない。
自己肯定感の低さばかりを意識させられる今日。
身の回りの不幸を、理不尽を、惨めな現状を打破する前向きな姿勢よりも、
今の自分の生活をひたすら精一杯守るだけが、
時たまほんの少しお手伝いできるだけが、自分。
自分がどれだけかかわるか、腰が据わっていない、
やれるところが何だかあやふやな自分、
それを強く意識した今日。


私はどこへ行くのだろう、何がしたいのだろう、
何を続けていくのだろう、何を学び続けていくのだろう。
どんな風に行動するのだろう。何がしたいのだろう。
私はどれだけ動けるだろう。私に何ができるだろう。


問いかけばかりが増えていく。

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