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メンタルヘルス研修

最近頂き物が多い。別にお歳暮の類を頂いているわけではない。
お裾分けというものだ。柿・蜜柑・林檎、そういった季節の水菓子。
買えばそれなりのお値段がするものだから、頂けるのはありがたい。
また、田舎からの到来ものを分けてくれた同僚と、ちょっと立ち話。
気軽に物のやり取りや会話のできる、そういう関係であることが嬉しい。


殺伐とした職場ではなく、ようやっと潤いが出てきたかと思う7年目。
遣り甲斐があるかどうか微妙なところではあるが、
自分自身が惨めにならないよう矜持を保ちつつ、何とかといった風情。
年末も目の前にちらついて来て、予定を消化するのに拍車が掛かる気忙しさ。
そんな毎日に少しブレーキを掛けるような、ちょっとした気遣い、
普段の気持ちをさりげなく、あからさまでない物や気持ちのやり取りが嬉しい。


そんな今日、職場で始めて受けるメンタルヘルス研修。
外部研修や自分で探して受ける研修の中にはあるものの、
この職場で受けるのは初めてのメンタルヘルス研修。
資格の上では一応メンタルヘルスに関するものを有してはいるものの、
実際に応用する機会は稀で、こと、他人のことよりも自分の心に
融通を利かせて余裕を持たせることが一番難しい。
紺屋の白袴、医者の不養生とはよく言ったもので、
研修や資格が100%生かされているかというと、そんなものではない。
重々承知の上での毎日が積み重なっている。


大抵の場合、研修はストレスとは何か、ストレスにどう対処するか、
そういうノウハウ的な話から始まる。
はっきり言ってストレスそのものは減らない。
自分が何かをすれば経るという類のものではなくて、
外部からやって来るものが殆どであるからだ。
自分の認知の中の範囲内であるものは、胃や歯の痛み。
その程度のものだ。


他者からの対応、言動、年々どころか月単位で削られる収入、
生命保険を切り崩し、それでも楽しむべき事を工夫して確保し、
健康一番と割り切って、自分の受け取り方で苛々しないと言い聞かせても、
急いている時や、何かと煩わしいことが重なっている場合、
あっという間に心の余裕が無くなる。
そうならないように、計画を立てたり、善後策を講じておいたり、
何かと自分なりに試みているのであるが。

メンタルヘルス―学校で、家庭で、職場で (中公新書)

メンタルヘルス―学校で、家庭で、職場で (中公新書)

どうしたら、人生は楽しくなりますか? 14歳からのメンタルヘルス

どうしたら、人生は楽しくなりますか? 14歳からのメンタルヘルス



今日の産業医は恐らく、あちらこちらで話慣れているのだろう。
話の枕といい、掴みといい、笑いを取るつぼも心得て、
自分自身を紹介すると同時に、専門的な部分をチラつかせながら、
(ある意味、神経内科や精神科の事を知らないと、理解し難いような、
 専門的な薬物の名前も出ていたのだが)淡々と話を進める。
時には先輩・同僚・学閥のへのこき下ろしや愚痴あり、
漢方薬を擁護しつつ西洋医学への批判あり、
私にとっては興味のある分野で、なかなか面白かった。
今までのストレスマネジメント系、メンタルタフネス系、
色んな研修とはやや趣きの、経路の異なる話の持って行き方。


病気にかかる人は、「何か私が悪いことをしたとでもいうのか」と、
悲嘆にくれるのだという。古今東西老若男女に問わず、
このように思い嘆いて、「こんな目に合うのは自分が何かしたせいなのか?」と、
鬱々とした魔のスパイラルに落ち込んでいくのだという。
よく分かる。私もしょっちゅう思っている。
どうして自分だけがこんな目にあうのか、一体私が何をしたというのか。


自分だけが苦しい思いをしているように思える。
他人はずるをしてのうのうと楽をして、悠々と暮らし、
衣食住満ち足りて生活しているように見える。
そうして、何故自分はあくせくと、せっかく掴んだと思った幸福も、
健康も職も人間関係も、砂上の楼閣のように積み上げては消え、
泡沫の如くに流れ去り、何度同じことを繰り返さなければならないのだろうと、
苛立ちと悲憤慷慨のごった煮の中で煮えくり返っている。


そういう時期は長かったから分かる。
ほんの少し、そういうものから距離をとるのが上手になったけれど、
ちょっとした拍子にバランスを崩して、ひっくり返ったおもちゃ箱のように、
収拾が付かなくなった、「キレた」状態の自分にうんざりする。
そうならないように、勉強・鍛錬・研修・読書、色々工夫するのだが、
いや、してきたのだが、何事にも限界はある。


不可抗力。自分が抗ってもどうしようもないこと、
そして、自分自身を律し損ねて得てしまった因果律
その中でもがいても、余計ぬかるみに足を取られるように深く沈み、
浮き上がっては来られない。
ナウシカではないが、底なし沼に足を取られたら、沈んでいくしかない。
その底に、自然に浄化された清浄な空間があることを信じて。


眠れるか、笑えるか、歌えるか。
眠くなくても布団に包まり横になり、
笑いたくなくても、わははと声に出して口角を上げて、
歌いたくなくてもとりあえず奇声を発して騒ぎ、
そうすることに焦点を当てていると、馬鹿馬鹿しさに鬱が飛ぶ。
そんな感じの話の内容。


そして、当たらずとも遠からず、利くも八卦利かぬも八卦
漢方薬の緩やかな効用を西洋医学と併用することを説いていた。
まあ、医療関係者の中には切って貼って縫って、対処療法オンリー。
ざっくり外科的手法で直らないものは、放っておけ、触るなもあることはある。
医療を受けるにはよい患者でなくては関わっては貰えない。
患者としての資質がなければ、患者として扱って貰えない。
その中で、長引く心身の「痛み」の余り、
差し伸べられた手を引っかく猫のような患者は、
欠陥ありと烙印を押されることもしばしばだ。


メンタルヘルスを失っている人間が患者だということを、
対話や会話の向こうに、縮こまっている人間を、
治療の場に戻すことがどれだけ難しいか、
講師の先生は淡々とユーモアたっぷりに話された。
「患者が何を言っているか(主訴が)わからない」と抜かす研修医は、
外来から外すことにしていると。
これには笑えた。本当ならば、なかなか度胸のある職場教育だ。


何を言っているか聞き出すのが臨床の場、診察の場であって、
分からないからといって癇癪を起こしたり、紹介状を書いて放り出したり、
それでは治るものも治らず、こじれるばかりだと。
確かにそういうこともよくある。見聞きする。
痛みや苦しみを、言語化するまでに随分時間が掛かる。
だから上手くいえないでいると、「無視」される。
察して貰える以前に、類型化タイプ別に処理されて、
治療ラインというものに乗せられて、扱いや易いか難いかの選別。
それが、患者にとっての臨床の場、診察室だったりする。


上手く伝えることが出来たと思えるまでに、無駄な言葉を、
愚痴と受け取られる言葉を何万言も費やさないと、
自分の痛みを確認できないので、
それくらい自分しか見えていないのが、
いや、自分さえも見えていないのが「病む」ということなので、
いついかなる瞬間に、自分を託すことが出来るのか、
分かって貰えるのか、癒して貰えるのか、
そればかりが気がかりなのが、普通の患者だ。
自分の力で治ろうとするほどの気力があれば、
「病む力」は健全なものだといえる。


そういう意味では、哀しいから泣くのではなく、
泣くから哀しくなるという方向性で、
現実に即した認知的な手法、ある意味楽観的な、
即物的な物事の処理の仕方は、とらわれ過ぎず
淡々と毎日を送る上では貴重な「生きる姿勢」だ。
病を持つ持たぬに関わらず、病は懲罰でも当たり籤でもなく、
生活の(凸凹の)一部として受け止めて処理していく、
今日の先生の話は面白かった。


なかなか癖のある、それでいて、その癖を使って、
てこの応用のように、話をぐっと持ち上げる。
個性豊かな先生の体験談と見識は、予想していたメンタルヘルス論とは、
随分かけ離れたものだっただけに、面白かった。
こういう職場研修だったら、参加のし甲斐もあるなあ。
というか、こういう研修も行われるようになったというべきか、
受け入れられるようになったというべきか。
年度末間近。先週から研修相次ぐ。
明日は霜月つごもり。

精神科産業医が明かす職場のメンタルヘルスの正しい知識

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こころキラリ〜職場のメンタルヘルス〜

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