Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

 ソーシャル・ネットワーク

後味の悪い映画。
見てすっきりしないというか、ネット時代の新しい動きが、
こんな風にハッキングとオタクな発想に支えられて、
覗き見趣味的に発展したとは。
自分が繋がっている世界は「未知への憧れ」よりも、
特権意識や優越感、知的財産の共有という名のもとでの取引・商売、
そういうものが複雑に絡んでいたんだと思うと、
気持ちの良いものではなかった。


世の中、多かれ少なかれそういうものだとは分かっていても、
自分というものを表現するために、自分の力を誇示するために、
才能がこういう形で現れ、使われ、発揮されたということに
気分の悪さを感じた。気分を害された。
直接的な表現で自分の気持ちを吐き出すことがためらわれるくらい、
この作品の世界から遠ざかりたい。


もとより冒頭のすれ違いシーン。
恋人と思っている(勝手に主人公が思い込んでいる)女性に、
自分の思っていることをマシンガンのように話しているものの、
(自分を認めて欲しいがために)
上から目線で相手のことを見下した態度に、
傷つく女性の気持ちなど推し量りようもなく、
主人公は自分のペース、自分の感情だけで動く。


若い時には誰にでもありがちな、当たり前の行動だけれど。
度が過ぎて、エスカレートしていけばただの変人、
「空気が読めない」嫌な人になってしまう。
そのことに気付いていながらも、認めようとしないし、
直そうとする気もしない、あくまでも「自分」であろうとする主人公。
自分を相手に合わせて変化させることなど、自分が傷つくこと。
だから、決して相手に合わせようとはしない。


うーん、ブログに相手の悪口を書いてしまう、というか、
(普通そこまで書かないよね、という内容を)2台のパソコンを駆使して、
感情の吐露と気分転換を別々のパソコンで行うわけか。凄いなあ。
賢い?人というか、オタクというか、飛んでる人はやることが違う。
女性をランキング、情報はハッキング。
相手の個人情報に無理やり押し入っていくことへの抵抗もなく、
情報を盗むことに快感さえ覚えている。
それが自分自身の力、能力の誇示だと楽しんでいる。
相手に見せ付ける如く、やっていることがエスカレートしていく。
ゲーム脳、ゲーム人間は怖いなあ・・・。


自分にない物を別のもので補う、それによって精神のバランスを図る。
当たり前と言えば当たり前の思春期特有の人間の在り方。
相手のアイデアを自分のものに取り込んでも認めない。
相手と生のコミュニケーションを図らず、
自分に都合の良い人間を周辺に置き、
手持ちの資金が無い分は人のふんどしで相撲を取り、
いつの間にか巨万の富を築き上げていくけれど、
人と人との気持ちの間には入っていけないままの、大人の姿をした子供。
哀れな大人子供、そんな風に描かれていた、フェイスブック創始者


(ちなみに私はフェイスブックには興味は無い。
 そこで今以上に繋がろうとも思わない。
 現実の生活に手一杯である)

フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)

フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)

THE SOCIAL NETWORK

THE SOCIAL NETWORK


怒りに任せて書き込んでしまう、そんな姿を見ていると
自分と重ね合わせてしまうから、思わず苦笑してしまう。
リアルタイムで物事を書かないようにしているにも拘らず、
書きたくなるほどの衝動や感情を持て余してしまう日常生活に、
「いい年をして」とやるせなくなってしまうけれど、
こういう感情のぶつかり合いが当たり前の人間の生活、有様。
お互い気分を害し、落ち込み、それでもなお、関係修復の道を探る。
それが相手と共にあるということ。


何故ならば、相手が自分にとって大事な人ならば、
自然と許すことが出来ることもあるはずだし、
どうしても許せないことが出てきたり、依然としてあるならば、
腹の中に治めなければならないことも、
諦めなければならないこともある。
全てが自分中心にまわっているのではない。
だから、自分から全てを断ち切ってしまったり、
仕切ってしまったりすることは出来ない。


今まで続けてきた関係や、居心地の悪い、仲違いをした関係の上に、
お互いの疲れや苛立ち、不安ややるせなさを慮り、
分かって受け入れた上で、傷つけ合う事などやめにしようという、
大人としての当たり前の許容、謝罪、遠慮、気遣い、
後悔や謝罪の上に成り立つ「けじめ」。
それら複雑に絡み合わさった通過儀礼ともいえるやり取りの末に、
何も無かったわけではないけれど、無かったかのように振る舞い、
慇懃無礼から自然なやり取りに戻るまで、
葛藤を抱えつつ生きていくのが、人の世の常。


繋がりたいという気持ちを自然に表現することが出来ず、
プロフィールの中に打ち込まれたデータの積み上げの中に、
偶然を装った出会いやニアミス、
偽のデータで成りすますことさえも可能なフェイスブックの中に
まるで人生を凝縮した本当の出会いの場があるように信じさせる。
人生経験の予想を超える未知や偶然ではなく、
計算され予想され演出され、予め装うことで失敗を少なくし、
マニュアルの中にのっとられたような付き合いを、
本来の付き合いであるかのように、実感させようとする。
「袖触れ合うも他生の縁」ではなく、
自分に必要な出会いと別れを選択し、
そうすることが出来るという特権意識を持つことによって、
自分を正当化し、理論武装し、世の中での存在意義を確認する。


「友達の友達はみな友達だ」という幻想を、人と人を介した紹介ではなく、
機械的にデータの上で繋がっているとみなす、限定する、決め付ける、
そう装うことでデータ化された、詐称捏造可能な関係の中に、
自分のステイタスを見出す、ネットワーク社会への警鐘。
ソーシャル・ネットワークとは、本当にソーシャルなのか。


人間らしい生身の付き合いからどんどん離れて、
(本来ならそういう付き合いの補足、或いは現実に出会えないからこそ、
可能になるやり取りへのアプローチ)
自分に都合の良いパーツだけを取り出して散りばめたような、
そんなこういう関係や見取り図を目にして、
世界と繋がり、治めたような気持ちになっている。
そんな人々が寄り集まっている世界の片隅にいる、
(中心のように見えて、実は中心ではなくなっている)
主人公が空恐ろしく哀しい。


繋がろうとして、本質的な部分で繋がれない人間。
幾ら巨万の富を手にしたところで、その姿を抜きにして、
ただの一人の人間として、どれだけの人が損得抜きで近寄ってくれるというのか。
才能をビジネス以外のもので置き換えることが出来ず、
孤独をネットで埋め合うことも出来ず、
「繋がる」ことが何を意味するのか、分からないまま、
主人公は佇む。


すっきりしない映画。後味の悪い映画。
ネット社会の便利さ、その問題をえぐっている背景に、
機能不全を起こしている人間が、機能的な社会を作ろうとして、
ますます非機能的な、非人間的な存在に堕して行く姿に、
ぞっとしてしまう。
繋がろうとして繋がることの出来ない人間。
そうならないように、身近な人を大切にしなければ。
そう思いたくなる深夜のレイトショー。