Festina Lente2

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静脈が見えた日

血管で動脈と静脈では動脈が大事だと思っていた。
小学生の頃、血が沢山出たら死んじゃうんだってと覚えた頃。
赤い線が大事で、青い線は二番手。サブの存在。
そんな風に思っていた時期があった。
物事、何事も一筋縄ではいかない。
一つの側面から見ると肝心なものを見落とす。


切り口はどこか。多角的な視野。視点取得。
そんな言葉を普段使っていながら、往々にして無意識のうちに、
物事はシンプルに、単純に、「自分用にわかりやすく」受け取り勝ち。
受け取るというよりも、自分用に勝手に変換してしまう。
脳内変換。偏見とも思い込みとも言うけれど。(笑)


思いがけないものを見ると脳が拒否してしまう。
よく言えば経験、悪く言えば先入観が邪魔をして、
新しい物事・出来事・言動を無視し、受け入れ拒否し、選択せず。
いい意味での軽いショックと感動があれば、
思いのほか上手く受け入れられることもあるけれど、
大抵は無意識のうちに脳が拒否してしまうものが増えてくる。


本日は軽いショックと感動。あれ、そこまで言うと大げさか。
長く読ませて頂いているブログで、「静脈」を見せて頂いた。
子供の頃は「青い血」が流れていると思い込んでいた、
あの「静脈」がこんな風に見えるとは・・・。
http://yangt3.blog.so-net.ne.jp/archive/20110223
科学の発達、医療設備の進化、凄いですね。


私が「静脈」を意識したのは、高齢出産を控えた、
○高妊婦の時代。静脈瘤が出来ないように云々と注意された頃。
幸いそれは難なくクリアしたものの、出産後、あちこちに不調、
卵巣は萎縮、肝臓は? 腸は? テニスで鍛えたはずの体は、太る一方。
今では臨月の体重。お酒を飲まなくても脂肪肝になるはず。
歩行に問題が出るはず。数年前から動脈硬化予防云々と説教を食らうはず。


動脈だけが大事だと思っていたけれど、詰まるのは動脈だけではなく、
さらさらの血液で順調に流れていく血管が大事なのは、静脈だって同じ。
動脈に流れる赤い血は、酸素をたっぷり含んでいるから。
静脈が運んできたくたびれた血液を肺で綺麗にして、
元気な心臓が送り出してくれるからこそ。
胸が痛んだり、どきどきし過ぎたり、めまいが続いたり、
これは一体何の兆候ぞと考える時、
目に見えない部分の小さな不調が、どんどん広がっていく。


そんなことを改めて思い出させてくれる、血管の広がり。
静脈の画像。凄いなあ・・・。
腕の静脈で思い出すのは予防注射、いざという時のライン確保、
この装置を使わずとも腹に沢山血管が浮き上がってきたら、
それこそ怖ーい病気のしるしだったはず。
見える見えない血管の通り道の世界。
当たり前のように、体を維持している細かい枝、
生まれて初めて理科で「葉脈」の栞を見た時の、
不思議な感動が蘇ってくる。

知らないと怖い血管の話 (PHPサイエンス・ワールド新書)

知らないと怖い血管の話 (PHPサイエンス・ワールド新書)



昔、こんな童話? イソップだっけ、読んだ記憶。
体の中で「口」だけが、美味しいものばかり食べている。
体のほかの部分は自分たちは休まず仕事をしているのに、
「口」はずるい。自分だけ得をしている。
そういってストライキをするんだったような。


はっきり結末は覚えていないけれど、こんな感じだったかな。
体の各部位が仕事をしないと、体全体がだるくて不調になってくる。
目はものがはっきり見えなくなり、耳は音が聞こえなくなり、
手は思うように物がつかめず、足は立ったり歩いたり出来ない。
一日中休まず働いているのは、自分達だけだと思っていたけれど、
「口」に食べ物なんか運ばない、水分を取らせない、
食べ物飲み物を買いに行かない、料理もしない、
美味しい匂いを嗅いでも知らん振り、そんなことをしていたら、
体がどんな風になってしまったか。


胃が消化せず、腸が吸収せず、大腸が排泄しなければ、
腎臓がおしっこを作らず、肺が空気を吸わず、
血管が血液を運ばず、・・・考えただけでも恐ろしい。
とにかく体の中が「しない」「できない」のないない尽くしでは、
バイタル低下レベルの問題ではなく、間違いなくあの世逝き。


だから、体の中の各器官はものを言わず、ストライキもせず、
好き嫌いもせず、黙々と動き続けている。
沈黙の臓器などとあだ名される部分に至っては、
私の場合脂肪で白く光っている情けない状態。
高齢出産と運動不足体力不足の内臓下垂、
更年期の諸症状、加齢から来る小さな故障の合併。


「口」が食べているから栄養補給できているはずなのに、
糖分や塩分、脂肪が過剰摂取ではお話にならない。
TVのCMで有名になった、余分三兄弟とばかり仲良くするわけにはいかない。
この浮き上がって見える静脈の広がる3D大平原、
人体の彼方には、延々脈脈と運ばれていく様々な成分、
生体維持に必要な諸成分、そして、運ぶために必要な血管、脈動。


心臓も黙って鼓動を続けている。血管に送り続けている。
送り出しては受け取り、送り出しては受け取る。
息を吸っては吐き出し、吐き出しては吸い、
無意識のうちに繰り返される当たり前の体の状態を、
普段、健康な人間は意識することは出来ない。
限られた職業の人間が、バイタルサインから病を、
体の故障を見出し、治療に取り掛かる。


物言わぬまでも無くてはならない存在。
体の中がそうであるように、仕事の場、組織そのものも、
本来はそうであるのだけれど、日の当たる場所で仕事をしている人間は、
その場が何に支えられているか、謙虚に思うことは少ない。
いつも自分が積極的能動的に動く存在であるかのように、
不可欠の存在であり続けるかのように思い込んでいたりする。


血管に動脈があれば、静脈があるように、
仕事の中にも裏表があり、メインとサブがあるように見えて、
サブが無くなれば立ち居かなくなるメインであることを忘れて、
単純に首の挿げ替えさえ出来れば、それまでどおりに物事が運ぶと、
何事も上手く行くと思い込んでいる人がいる。
どうにかなるとたかを括っている組織がある。
そんな中で「私は嫌だ」とおのおのが言い出したら、どうなるか。


組織の中では声を上げることが大事な時とそうでない場合がある。
「口はずるい」と感情的になって動いても、
それがどのような結果になるか考えずに発した一言で、
組織そのものが麻痺することを考えずに会議で発言すると、
それは致命的な亀裂に繋がりかねない。
小さな部署が少しずつ痛み分けで動く、こなしてきたことが、
粉砕され、保ってきた仲間意識は消し飛び、
身内の甘えや依存心だけがはびこる場合がある。


自分たちだけが頑張ってきたのに、という思い込みが、
自分だけが頑張ってきたのにという思いに還元されて、
自分たちだけに都合の良い組織を居心地よいと感じる、
そんな人間が自己主張の強さで「仕事をした」と前面に出る。
その煩わしさを日々哀しく思う年度末。
透けて見える静脈のように、透けて見える物言わぬ思い、
目に見えぬ行動、そういうものが人と人に、組織に、
大切な誰かに伝えられる、そんな装置があればいいのに。


そんなことをしんみり思った今日。
私は動脈にも静脈にもなりたい。
そう、改めて思った今日。
どんな血液でも運んで行きたい。
そんなふうにも思った今日。