Festina Lente2

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異動の余波

本日は職場の大掃除も兼ねて、大掃除。(おそらく第1回目の)
また、4月になれば表向き大掃除が再び始まる。
今はその前哨戦。引き継ぎもかねて。
なかなか前向きに気持ちを切り替えることができないまま、
あっという間に月末を迎えてしまった。


人事異動の波の大きさもさることながら、
自分自身、新しく来た人たちからどんな風に見られるのか、
胡散臭い古株と思われてしまうのではないか、
望んだ転勤ではない丸7年、新年度の8年目も目の前、
封印したはずの愚痴が蘇る年度末。
ここでまた過ごすことになろうとは。
思ってもみなかった。・・・まったくうんざり。


部署の年度末最後のランチを兼ねた餞別お食事会で、
「思い通りにならないものは転勤とはわかっていても・・・」と
常日頃愚痴など滅多にこぼさない、仕事のできる先輩が
言葉を失くしてがっくりしていたっけ。
残るも地獄、出て行くも地獄。そういう転勤、異動。
年度末はモチベーションが下がる危機的な時期だ。
新年度は必ずしも意気揚々としている訳ではない。


元々、同窓意識がそれほど強いわけではなかったが、
先輩や後輩がいるというのは何かしら心強いものだった。
普段意識していない、隠れた甘えや懐かしさのような、
ふとした瞬間湧き上がる感慨までも根こそぎ剥ぎ取られてしまうのが、
凡人には知る由も無いままならぬ転勤の仕組みだ。


残すところ、共に仕事をするのも後1週間ほど。
共に机を囲み、何かと相談し、それぞれの持ち場を守り、
支え合って来た職場の空気もあと少しすれば、
一変してしまうのかと思うと、毎度のことながらとても寂しい。
特に今年度・来年度は定年に伴う退職者も多く、
年齢から必然的な世代交代の時期に来ているとはいえ、
自分はやはり旧世代に属する人間なのだと、つくづく思い知らされる。

一日 夢の柵

一日 夢の柵

定年ゴジラ (講談社文庫)

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どんどん自分が頑なになっていっているのがわかる。
仕事をするに当たって、転勤直後、
前職場とのギャップについていけず、
自分自身を立て直すことさえも放棄したくなったあの頃。
当時の心境に戻ってしまったような、今年の春。
自分が転勤するわけではないが、当時を知る人間はもはや少ない。


今年もまた異動も無く、
残された退職予備軍の身の上となってしまった人間としては、
仕事をバリバリしてもしなくても風向きが変わることなく、
ねぎらわれることも無く、頑なに定位置を占めるだけ。
やればやったで却って迷惑がられることも増え、
やらなければやらないで必要以上に謗られ、
してもしなくても矢面にばかり立たされ、割に合わない。
徒労感ばかりが募って、
何だかいっそう老け込んでいくような心持ち。


よき先例を残しノウハウを引き継いで貰いたいと思っても、
若手の思いは違う。時代が変わり、やり方も変わり、
新しいソフトにハードが付いていけないように、
自分たちが使い捨てのコマとして捨てられる時期が目前に迫っている、
そんな気持ちがする。
デジタル化できない古いTVと自分が重なって見えて仕方が無い。
何か機械を付ければデジタルも見られるようになるという、
そういうお助けグッズが無ければ生きていけない。
現場で生き残れない全盛期の遺物のような心境がいや増す年度末。


年功序列が生き残っているような、
いまだにトップと年長者ほど権力を握る組織であれば、
年齢を重ねた自分の経験と判断力で、
組織を率いて仕事をする充実感に溢れており、
当然おかしくない地位や立場にあるのだろうが、
残念ながらここはそういう職場ではない。


だから、自分のモチベーションが下がってしまうと、
自分自身を自らの手で根底からひっくり返してしまうことになる。
人にどうこう言われる前に、勢いで幕を引きたくなってしまう。
誰も自分を持ち上げたり仰ぎ見たりすること無く、
家内制手工業の伝統を守っているような、狭い世界。
それこそ戦国武士のように、各々旗指物を背負って戦っているような、
古風な職域、職場環境だから仕方が無いのかもしれない。


時代が変わっても、変えられない部分があるというのに、
現場はどんどん変化する。
人間はどんどん入れ替わり立ち代わり、
お客も多種多様で時代と共に変化・変容著しく、
現場のノウハウなどあっという間に古びてしまう。
「最低限のことをして給料さえ貰えればいい?
それはとんでもないことだけれど。


開拓者精神はどこへ。どんどん守り、
専守防衛の片隅に押しやられて、自分から攻める意識、意欲、
やる気、やりがい、理想、希望、信念、計画、見通しなどから
どんどん遠ざかっている・・・。「叱咤激励」という言葉が、
禍々しい呪いのような四文字熟語に見えてくるから情けない。


新しい「知」が、いや、「血」か。必要なものは。
被災地に関係なく、親が動揺すれば子供が動揺しストレスになるいう。
子供の時親や大人は知識や経験を積んでいるから、泣きたくても泣かない。
辛くても歯を食いしばって頑張る。未知のものにも立ち向かう。
いつでも前に立ちはだかって後ろにいるものを守ってくれる。
そんな存在になれるのだと信じていたし、思っていた。
大人になんかなりたくないと思っていたのは、
「年を取って老ける」という外見的な変化のみこだわっていた
子供の浅はかな杞憂。その内面の変化のことなど
思い及ぶ知恵も知識も無かった頃だ。


それがどうだ、幾つになっても動揺し、寂しくなる。
馴染みの顔が減って行くことに、人間関係が変わることに、
(転勤していく人間は、一から関係を構築しなくてはならないのに)
鬱々としている。こんな風に季節ごとに1年ごとに訪れる、
人も物も入れ替わる時期に揺られながら、日々を過ごしていくのが生活?
仕事の一部というのだろうか?  
何だか心細いばかりで、何かを成し得たという達成感、充実感は
年毎に感じにくくなってしまう。


謙虚になるのではなくて、臆病になってしまった。
そんな気持ちにさせられる、この年度末。
人の評価に自分を委ねてしまって、落ち込み続けているなんて、
年々歳々どうしたことか。
やり過ごせずに引っかかってばかり、あちこちにぶつかってばかり。
そんな気持ち、気落ちばかり感じる今日。

モタさんの落ち込みやすい人に効く55のヒント

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