Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

揺り返しと後悔

開発されていくことに、抵抗はできないのか。
田舎の都会、都会の田舎はずいぶん様変わり。
よく手入れされているように見える林は、実は悲惨。
落ちは毎年全部清掃されて、山土に戻ることは無い。
お陰で年々環境整備された土地は痩せ、木々は細り、
春とは思えぬ痛々しい林、山の斜面を見せている。
これは手入れとは言えない。植物を、自然を知らない人のすること。
単純にゴミを拾って綺麗にするのと、
根こそぎ土ごと落ち葉を剥ぎ取るのと、違いの分からない仕事。
そういうことを平気でする、続ける土地の、町の、線路沿いの、
雪柳と連翹が、短く真四角に刈り込まれている。
思わず頭に血が上る。


なかなか思うに任せない場所で、人が顧みない仕事を任され、
部署を担当し、書類を作り、研修を行い、記録を残し、
年齢相応年相応の職場内教育の場を整備する。
経験がモノをいう仕事だと思われているが、
適材適所、向き不向きはある。
やってみて初めて分かることも多い。
「石の上にも3年」の諺どおり、それは実感。
何年か先の定年を遺して行きたいことは多い。伝えたいことも。
でも、世代間に余りにも開きができ過ぎた。


物事にはやってみて、やらせて見せて振り返り、
初めて分かることが多い。
教えることも分かち合うことも時期があり、
枝を伸ばし、葉を茂らせ、実を実らせるようになるまでに、
肥料をやり、剪定し、樹形を整え、育てていくように、
人にも職場にも必要なものが沢山あるというのに。
自分自身の在りようにも、沢山必要なものがあるというのに。


耕す土地を奪われて、その土地に植えたものを省みず、
体裁ばかり手入れをしているように見せかけて、
真剣にそこに根付くものを育てようともせず、
機械的に定期的に刈り込み、飛ぶための羽を潰すように、
木が大きく育つことを許さず、肥料もやらず、生殺し。
この頃、強く刈り込まれ白い花をつけることができない、
枝を伸ばすこともできず、スカスカの頼りない緑を、
力のない黄色い花びらを散らす、連翹。
そこにばかり目が行ってしまうのは、自分を見つけてしまうから?


刈り込まれることに感じる強い抵抗。
春先の美しい桜の足元で、雪柳と連翹はいつも揺れている。
人々は見事に咲き誇る桜を愛で、行き交う。
一家団欒、くつろぎと幸せの構図の中に桜は花びらを散らす。
雲と見まごう花、花、花、天を隠すかのように差し交わされた
枝の全てに桜花の房は揺れる。


雪柳のただただ白い花は、そのあまりに小さすぎる花びらは、
強い感動を生むに至らない。長く伸ばされた枝に付く小さな花。
ささやかな花びらを数多くつけることで、長い枝が白一色に。
本来は地味な花だから、春先に強く剪定されてしまうと、
花芽ができていても全て駄目になってしまう。
桜ばかりがもてはやされて、天を目指して伸びていくのに、
何故に雪柳や雪柳の美しさを剥ぎ取られ、
連翹は連翹の色を失ってしまって・・・。


何もできない、できないまま刈り込まれてしまった。
そんな意識が強いのか、そんな思いが強過ぎるのか。
やり残したこと、できなかったことがぐるぐる頭を回る、
年度末と年度始め。春の景色が目に痛い。
踏みにじられた、そんな思いばかりが年々強くなる。
やりたいことが沢山あった、計画が積み上げられていた、
そんな矢先だっただけに、年を重ね異動の影響を受ける度、
遺されて再調整、残されて位置から組み直し、
三歩進んで二歩下がる毎日に、徒労感が膨らむ。


『終末期患者からの3つのメッセージ』この本の中で、
米の外科医、シャーウィン・B・ヌーランド言葉が紹介されていた。
断片的には耳に痛い言葉が多かった。


「この世を去るときに(中略)たいていの場合、もっとも大きな重荷は後悔」
「私の言う余計な重荷とは、解消されない葛藤であり、
 修復されない壊れた関係であり、実現されない可能性であり、
 守られない約束であり、
 もはや生きることのない年月のことである。」
「矛盾しているように聞こえるだろうが、 やり残した仕事があると いう事実こそが一種の充足にほかならないと
 考えるべきであろう。」
「無用な重荷を避けるべきだろう。
 死が計画通りに訪れることは滅多になく、
 期待通りに訪れることさえ滅多にない」

終末期患者からの3つのメッセージ

終末期患者からの3つのメッセージ

死ぬときに後悔すること25

死ぬときに後悔すること25



日本人は『方丈記』以来、伝統的に無常観に裏打ちされた
死生観を持ってきたはずなのだが、戦後忘れ去られて久しい。
平和な期間が長くなり、誰も彼もではないにせよ、
長命になった分、刹那的になり、時間を持て余してしまうのか。
まだそこまで何かをやり遂げるほど生きてきたわけでもないのに、
できたこと、できなかったことへの思いがこみ上げ、
震災の余震の振幅の上で跳ね返るように、心に堪える。


一瞬一瞬の大切さも、少しずつ積み上げていく大切さも
輪郭がぼやけてしまって、何もかもが自分のせい、
何かどこかでしくじってしまったと思い続けて、
充実感がストンと消えてしまう心持ちを繰り返す。
今年の新緑の時期の憂鬱は、揺り返しがきつい。
人生生50年ではない今、実感がわかない「メメント・モリ」の時代。
本に紹介されているように『伊勢物語』の在原業平が読んだ辞世の歌
「ついに行く道とはかねて聞きしかど 
         昨日今日とはおもわざりしを」は、
この未曾有の震災、「非常時」を以て実感されたのでは。


自分の生活の根底が揺らぐ、
それは、自分の命の是非が問われること。
自分の命が受け継がれて何処まで続くかを、考えてしまう。
当たり前が永遠に続くような生活、若者人口が少なくなってきた今、
既に世界は緩やかに刈り込まれている。
今回のことで更に大胆に剪定されている。
そんな気持ちになってしまう。
こんな共鳴、共振の波に乗るのはいけないことだと、
頭では分かっているのに。


経済力のある高齢者などとおだてられ、元気な「熟年」を演じる。
そんな風に感じている人も多いかもしれない。
私は高齢出産で授かった娘の成長を、何処まで見届けられる?
大人になり、社会の中で根を下ろし、
生活していく姿をどこまで見られるだろうか、
親ばかながら、そのことがひたすら気がかり。
今回の震災の余波は私の気がかりを揺さぶる。
杞憂の範疇、考えても詮無い先のことを。


けれども、「自らの頭の上の蝿を追え」で、
自分の健康は心もとない。
それどころか生活の糧を得るための仕事がありながら、
不安と愚痴に苛まれている。かなり情けない状況だ。
それ故に、不本意に刈り込まれた自然の姿に苛立ち、
自分で自分を揺さぶってしまう。
自分で自分を刈り込んでしまっている自分が哀しい。

なにも願わない手を合わせる (文春文庫)

なにも願わない手を合わせる (文春文庫)

メメント・モリ(死を想え)―死を見つめ、今を生きる

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