Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

桜、桜よ

ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ  
              紀友則古今和歌集百人一首


百人一首を覚えた頃、小学生の頃から心に残っている歌。
どうして花は、桜は散っていってしまうのだろう。
過ぎ行く春の日、のどかに見える景色も
あっという間に時に押し流され、とどまることは無い。
咲き定まりそのまま永遠ということはあり得ない。
散り急ぐ花に穏やかな心が無いのではなく、
穏やかに見守り続けることができないのは人間の方だと、
気付かされるまでに時間は掛からなかった。


  

  


散るなどということを知らぬ風情のつぼみのあどけなさ。
大きな枝ぶりから雲か霞かというように咲き誇る桜よりも、
恥ずかしげに幹近くに揺れる花とつぼみが愛らしい。


    


差し交わす枝の向こうに見える空、ここは駅近くの公園という
現実を思い出させてくれるビル群、花見に集う近所の人々、
傍若無人に様々なものを持ち寄り、ビニールシートを広げる、
そんな人間の飲み食いや転寝、散歩する姿を、
静かにしんと見下ろしている大勢の桜たちの鷹揚さ。
私には真似できそうに無い。

  


もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし 
              前大僧正行尊・小倉百人一首
ここまで孤独に生きているわけではないが、それでもこの僧の、
花と対峙する己の闇の深淵というものを覗き込んでこそ、
季節の巡るありがたさが思い知られる年齢となった。
花に慰められる心のありようが、年と共にふり重なっていく。
人と共に在るこの一瞬の素晴らしさ切なさが身に沁みる。


  


松葉杖から片手の一本杖になった家人がよろよろ歩く道。
桜の下で散歩する父と娘の姿は杖のせいで、
じいじと孫娘のように見えてしまうのがご愛嬌。
ともすれば白髪の自分の姿も、それと変わらぬものなのだが。
ニュータウンの公園に四半世紀以上植えられて、
それなりに世代交代を眺めてきた桜達なれば、
人の世の移り変わりにも優しいか。



行き交う人に老若男女あり、犬を抱く者、連れ歩く者、
ベビーカーを押しながら歩く夫婦、カメラ片手の独りもの、
様々な人がそれぞれの楽しみ方で、薄桃色の雲の下に集うが如く、
花見の喧騒は下火になりつつある日曜の午後、遅めの昼下がり
みなが家路を辿る直前、人の流れに逆行するように歩く私たち。



花は根に鳥は古巣にかへるなり  春のとまりを知る人ぞなき
                    崇徳院千載和歌集


春の美しい姿を毎年見るためには、それなりの心積もりが必要。
自分独りの力だけでは春を呼ぶこともとどめることもできない。
田舎の都会、都会の田舎とて、努力が必要。
花を、桜を愛でるには、それ相応のものが。


民度の高い」という言葉を好む家人。
駅の反対側に来ると、自治会町内会、それともボランティア、
いったい何が違うというのだろう。
駅の向こう側で無残に刈り込まれていた、
木々の下葉下草さえ全て刈り取られ持ち去られ貧相な林と化した、
あの景色とは一変して、丁寧に育てられた人口の林が広がる。
ここでは落ち葉も降り積もり、しっかり土壌の肥やしとなっている。
そこかしこには団栗が落ちていて、リスの姿などあらまほしき風情。
1kmと隔てぬ駅の向こうとこちらで何という景色の差異。


  


マンションの裏側の花壇の手入れはもう少しどうにからならないかと、
残念ではあったものの、箱型の建物に住む人間の庭であり借景の林。
ジョギングと散歩のコースとなる公園は、かつての開発前の姿には
遠く及ばぬものの、面影をややしのばせる形で残されていた。
道路に面した連翹が短く刈り込まれていたのは致し方が無い。


  

  


されど、やっとめぐり合えたのびのびと枝を伸ばした雪柳に
心の底からほっとする。これが私の好きな雪柳の姿。
今日の桜めぐりの終焉、散歩はここでおしまい。
やっと今年の花見ができました。いつもよりずっと遅い、
そして、家族3人でたくさん歩いた花見でした。