Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

行間に存在したかった

仕事できりきり舞いをしながら、あれよあれよと4月最終週。
SNSで過ごした1年余りの時間がタイムアウト直前。
名残惜しいけれど、自分は新参者で古参ではない悲しさ。
その立ち上げ当時を知るよしもなく、その頃の記録を読むこともなく、
あっという間に流れに流されて馴染みになれぬまま終わっていきそう。
昔からの人というのはいつの間にかいなくなり、世代交代し、
そして、新しい場所で根付き、種をまき、そんな風に世界が変化し、
移動し、変容し、広がったり、狭くなったり、消えていったり。
名残惜しいと思うのは傲慢な新参者の思い、
今はただただ終焉を見守ろうという思いの人が多いに違いない。


仕事の上での新年度は始まったばかりなのに、
一つの世界が終わろうとしているのが何だか不思議な気持ち。
震災以前からそういう傾向は強かったし、昔からそうだったけれど、
「大人」になってから封じ込めていた感覚が、この所の揺り返しのせいで、
蘇ってきたみたいな気がする。


自分が今いる場所に対する現実感覚を持続させること、
現実・非現実の境目をはっきりさせること、
過去を振り返らず未来を見つめること、
泣いても戻らないもののために、それ以上涙をこぼさないこと、
「儀式」以上に溺れたら、戻ってこれない深みまではまらないように。
本の中に没頭して、閉じると何もかもが消え去ってしまうような孤独感、
映画にしてもドラマにしても、限られた時間の中の限られた映像、
わかっているのに感覚や感情が割り切ってくれない。
ましてや現実の生活の中で切り捨て割り切らねばならないことの、
山積していること夥しい毎日。



自分の感性や感覚、好みやフィーリング、そういうものを優先し、
気分よく、いや、こだわりに忠実にその世界に滞在すること、
構築された世界に、もしくは好ましい世界に居座り、存在し、
あたかもそこの住人であるかのように、振る舞い続けること。
登場人物の中の一人のように、最初から存在していたパーツのように
当たり前に画面に溶け込むことを、どれほど望んできたことだろう。
物語の行間の中に自然に存在することを。


人が自然が歴史が紡ぐ壮大な物語、その中の一瞬の存在、
わかっていてそこに差し挟まれる栞となり、何度となく目印となり、
自分自身の存在価値が振り返られるような、仰ぎ見られるような、
忘れられないような存在となって生き続ける。
そういう生き方にどれほど憧れてきたことだろう。
現実離れした物語の中に、自分の魂を封じ込める。

世界で戦える自分をつくる5つの才能

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はじまりとしてのフィールドワーク―自分がひらく、世界がわかる

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子供の頃味わったあのわくわくした体験、感覚、経験、喜び。
お気に入りのものや世界、物語の枠組み、ストーリー展開、登場人物、
どの部分にどんな風に関わるかはそのとき次第。
ただひたすら自分自身がその世界に関わり続けること、
見えぬ姿を見いだし、聞こえぬ音に耳を傾けること、
その過程にどれだけ執着したことだろう。
私はそのSNSに没頭するほどわくわくしたわけではないけれど、
自分が好きな素材に執着することがけなされない世界、
異端視されない世界があるということに、ほっとしていたのだが。


それぞれが仕事や生活を持ちながらも、別世界で憧れの世界に繋がり、
それ以上の関わりを強制することもなく、緩やかに漂っている。
それが、当たり前の世界。もう少し早く知ることができれば・・・。
でも、それも自分の求めた程度までしか得られないのが掟。
「求めよ、さらば与えられん・・・」と同じ。
だからこそ、絵の中に存在するように物語の中に、
行間に、謎めいて存在し続ける自分、隠れ続ける自分、
絶えず新しい解釈を加えることができる偏光レンズで見る世界、
日々新しく生まれることができる、そんな果てしない広がりを持つ、
自分だけの物語の「行間」に存在し続けたかった。


そんなたわいもない思いに心をいっぱいにしながら、
春が行き過ぎていく。八重の桜も散り始めた。
連休へは秒読み。そのSNSとお別れする日に向けて、
私は現身(うつしみ)の自分自身を、どうやって運んでいくか、
辿り着かせるか、精一杯な月曜日。4月最終週。

空間の行間

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わたしのこだわり――仕事・モノ・コト・人生の流儀

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