Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

通りすがりではなく

通りすがりではなく、それなりにお付き合いを深めて、
できれば長いお付き合いが出来ればいいのだけれど。
執着せず、それでいて覗き見根性的な「お立ち寄り」が出来るのも、
ネットの世界の特徴だから、仕方がないか。よく言えば、
そのあっさりしたスタンス、距離感、コメントを残すも残さないも自由、
そういう姿勢がここでは当たり前なんだよね、そう思ってきた。


いちいちコメントしたりしないけれど、たまに☆を付けてみたりする。
付けたくなってしまう。エールを送りたくなる。感心してしまう。
なるほどそうかと納得したり、びっくりしたり。
(何にでも気を留めたりはしない、コメントは残したりしない。
 それはリアルな日常でも同じこと。)


狭い部屋の中にいても、職場で休憩していても、時々ふと思い出す。
いつかどこかで会えるかもしれない、本当はすれ違っているかもしれない、
誰かの言葉、思い、写真、呟き。目に見えない糸で繋がっている、
ネットの世界のお付き合い、あるかなしかの繋がりを太くするも細くするも、
自分の責任、自分の自由、自分の裁量。


だから、いつも訪れていた場所が「プライベートな空間」として、
いきなり設定されていたりしても、仕方がないことだとは思う。
航跡を辿ってどんな世界が広がっているのかと思ってみると、
いわゆるプライベートモードだったりする。
それはそれで仕方のないことなのだが、
執拗にお立ち寄りの形跡があると、訪問して貰った嬉しさよりも、
決して自分側を見せずに訪問し続けることに、何の意味があるのか、
どういう興味を持たれているのか、気味が悪くなってしまうこともある。


航跡を辿っていくと、ああ、こういう世界が広がっているのか。
こういう世界を持っている人に、こんなふうに関心を持って貰えたんだ。
などと、納得できたり意外に感じたり、びっくりしたり。
それはそれで楽しい。一見さんでやって来たのかもしれないけれど、
(単なる検索の余波で流れ着いてくれた場合が殆どなのだけれど、)
ご縁があってここまで来てくれたんだよね、という思いもひとしお。

フラッシュモブズ ―儀礼と運動の交わるところ

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ネットメディアと“コミュニティ”形成

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だから、姿も見せずひたすら訪れる、ドアの前に窓の横に佇む訪問者に、
ちょっと苛立ってしまうこともある。何しに来ているのかなあ、なんて。
そんなことを電脳玉手箱の蜘蛛の巣の上で呟いてみても、
何にもならないとはわかっていても呟きたくなる。
通りすがりのままでいることを満足している人に、
通りすがり以上のものを期待したり、質問したり、探ったりしてはならない。
そういうことを望んではいけないのだとわかっているというのに。


そうかもしれない。毎朝駅やバス停で会う、顔なじみの人。
顔を知っているからといって話しかけたりしない。
個人的な話題を持ち出したりしない。ましてや、バーチャルな中で、
・・・。でも、何故? 時々えもいわれぬ思いに浸るのは、足跡の現れ方。
とある記事は「人気」があるというべきなのか、毎日引きも切らずアクセス。


決して専門的なことを描いた部分はなく、あくまでも個人的な日記、
ぶつくさ呟くよりは、かなり長めの「意識の流れ」点描。
心の中の行ったり来たりの様子を書き付けておこう、
ぼけぼけで記憶が定まらなくなる前に。
そんなふうにも思っているのだけれど、
リアルタイム投稿でもなく、予定投稿でもなく・・・。
(文章修行の場とは言えない。営利目的ではない日記だし)
それでも、そういうここに毎日訪れてくれる人、頻繁に覗いてくれる人、
ありがとう。そうやって、また、再び来て貰えれば嬉しいです。


読者に対して記事を書くのではなく、日記とは自分自身のために書くもの。
それでも、時たま反応、個人的なコメントを頂くと嬉しい。
でも、こういう時間は長くは続かないはず。
だから今、みんな楽しもうとしているはず。心得ているはず。
そう思いつつも、勝手に落ち込んだり、
しんどくなってはならじと思ってみても、
1日に全く同じ人が100以上の記事を渡り歩いているのを見たりすると、
何なんだ? と不安を余儀なくされる。


ハンドルネームもわからず、住所もわからず、どこの誰ともわからない、
匿名性の高い蜘蛛の巣の世界で、多くを望んではいけないのだ。
公式ブログでもない。個人の思いを長めのつぃったーで綴っているようなもの。
・・・と思っていても、やはり引っかかる。
割り切れない気持ちになってしまう。
検索で辿るのではなく、ほぼ毎日訪問してくる。
でも、その向こうにどんな世界が広がっているのか皆目わからずに、
双方向ではないお付き合い、その当たり前な自由さが、
やたらと寂しく感じるここ最近。


通りすがりではなく、意図的に訪問しながら、
また、意図的に一方的に隠れ続けている。
決して双方向的にはならないこの世界。
そんなことになったら大変・・・。
でも、何か変・・・。
調べて引っかかってくるのではなく、必ず通り道になっているに過ぎない
電脳玉手箱の蜘蛛の巣の上でのことだと、割り切れればいいのだけれど。
いいのだけれど・・・。
どんな世界の人とどんなふうに繋がっているか、
それは分をわきまえて、こちらから望み過ぎないこと。
電脳玉手箱の蜘蛛の巣の上を、上手に歩くのは簡単なようで難しい。

日本的ソーシャルメディアの未来 (PCポケットカルチャー)

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学校・家庭でできるメディアリテラシー教育: ネット・ケータイ時代に必要な力

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