Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

執着の度合い『アジャストメント』

The Adjustment Bureau
調整のきかない毎日を送る自制心に欠けている自分。
有能な政治家などいるのか、国民・府民としては不安な毎日を送っている。
さて、ここに政治家として野心を抱く主人公。
選挙戦の裏表、アメリカの政治の制度。


そこに投じられた、意外な出来事。
陳腐な言葉で言えば「運命の出会い」というもの。
何が何でも忘れられない、離れられない特別な人への執着の度合い。
そういうものが巻き起こす、予想外の出来事。
The Adjustment Bureau が出動、行動を起こすとはどういうことか。
決まった運命を変えてまで、二人を結びつけるものはあるのか、無いのか。


現代は昔に比べて予定された未来、予想される未来が作りにくい。
前世紀から使い古された、「多様性」「個性」なるものが尊重されるが故に。
今の時代は夢を持つのが難しいと言うが、何を持って本人の夢とするのか。
千差万別の人の夢や希望の一つ一つを何と比較するというのか。
財産や身分が夢の一部、ステイタスだった時代。
権力や腕力が実力であった時代。
「命短し恋いせよ乙女」の恋愛至上主義が夢そのものである場合。
望むがままと言うが、望みには段階があり、変化が付きもの。
一つ叶えば次の夢が、希望が、或いは欲望が湧いてくる。


next stage 進めば次の段階が見えてくる。
next choice 次の選択を迫られる。


運命という複雑怪奇な絡まり合った糸を図面に書き下ろすが如き、
一冊の本。そして、その運命を調整するという名目で、矯正、或いは強制。
本人の望む望まぬ、気持ちに関与することなく、条件を整えることにやっきになる、
そんな「天使」らしからぬ「天使」の存在を見るのは久しぶりだ。
あれは『ベルリン 天使の詩』? それともリメイク『シティ・オブ・エンジェル』?
でも、あの天使は必要以上に人間に関与できなかったのに、
この調整局の面々はどうよ。絡むこと絡むこと。

シティ・オブ・エンジェル 特別版 [DVD]

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ベルリン・天使の詩 デジタルニューマスター版 [DVD]

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天使の「わっか」ならぬタケコプター、いや違った、帽子でもって瞬間移動。
どこでもドアならぬドアノブを右に回せば異世界、左に回せば調整局通路。
そんなお役所的発想、ホテルの使用人通路、スパイの御用達裏道、
そういった類を駆使して、主人公たちは逃げる逃げる。
巨大なのあの箱船ならぬ、運命の書を積み上げて読み回しされる図書館の中を。


いずれにせよ、運命に抗う人間と、運命を謹んで享受させる神の側の、
反抗と強制をロマンチックサスペンス的に描くとこうなるのか、
そんな感じのストーリー。
でも、何で二人の出会いが男子トイレなのか、彼女がダンサーなのか、
主人公が若手政治家で、それも運命上大統領候補なのか、よくわからない。
理解しがたいストーリー展開。


アメリカンドリームを、選挙戦の熱気を盛り込みたいからなのか。
「グッド・ウィル・ハンティング」のイメージを主人公にダブらせたいから、
権力に反抗する逃亡者のイメージを常に重ね合わせたいから、
またまたこういう展開? 「ボーン」シリーズの悲劇を避けて、
最終的にハッピーエンドにしたからいいだろう的な?
今一つ、訴えかけてくるものが弱い映画。
「アジャストメント」やっぱり言葉の持つイメージがしっくり来ない。
調整? 当てはめる? 取りはからう? 配置する? 

グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち―シナリオ対訳

グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち―シナリオ対訳

 



所々映像的に美しい場面はあるものの、何だか納得できないまま見終わった。
ヒロインが特に魅力的に見えるよう作られたダンスシーンも、
任務遂行に忠実・冷徹な者の指一本であっという間に台無しにされる。
超常的な力をもってしても、運命の調整叶わず、
本人たちの情熱が勝れば全て許される、などという、
そういうおとぎ話的なエンディングのために前置きが長過ぎる。
伏線や序詞が多すぎたんじゃないか。
そんな映画。


マット・ディモンもトシだから、そろそろ走らせるのを辞めれば。
年老いた俳優を効果的に使いたいのなら、
強面(こわもて)の超能力じーさんじゃなく
もう少し演技のしがいのある役を与えたら? 
そんなふうに思いながら見てしまった私って・・・。


それに、調整局の面々のヒエラルキー、身分構造のようなものが、
これまたどうもしっくり来ない。何だかお役所仕事に疲れた天使が、
自分の肩入れしている担当人物に入れ込んで、ついつい運命からの逸脱を許す、
そんな話を見せられても、ねえ。
国家・政治を語る前に、トイレとバスの出会いに執着する偏執具合を
恋愛への飽くなき情熱にすり替える辺り、見ていて辛いものがあったのだが、
これも当節の若者には麗しい恋愛活劇に見えるのか?


唯一「ふうん」と思ったのは、かのウィリアム・ワイラーの名作、
子供心にも恐ろしかった記憶のこびりついている『コレクター』の、
主人公を演じた青年が、今回の一番の強面だったということ。
なるほど、渋い。年老いたテレンス・スタンプの存在感。
それぐらいか。


いや原作が、フィリップ・K・ディックだったということか。
原作者の名前を見ると思い出すブログ、カイエ
運営者が亡くなってしまった、1年間更新を待ち続けてわかった事実。
その最後の記事が、フィリップ・k・ディックに関してだったこと。

http://d.hatena.ne.jp/neimu/20110115


映画ネタの宝庫なのかもしれない、彼の作品。
だからファンを集めることが出来るのかもしれない。固定ファンを。
だから、相も変わらず反体制派の逃走する、もしくは追跡する主人公を、
マット・ディモンに据え続けているのかもしれない。
そんなことを考えながら、昨日日曜日の映画。


え? 映画館三昧じゃないですかって? 
車で10分でシネコン、体調が悪い時、仕事で忙しい時ほど、
逃避場所になる映画館。(試験前に漫画を読みたくなる心境ですよ)
老眼鏡に頼らなくても見られる大画面、プレミアシート。
ちらちら映る画面に、昔訪れた場所を見出し懐かしさを禁じ得ない。
海外映画の中に見出す、郷愁。旅の思い出。


どこにも行けない代わりに映画館に足を運ぶ梅雨時の日曜。
その記憶を引きずりつつ、仕事に戻る月曜。
今日が、結婚記念日13年目の(苦笑)
運命の女神よ、これで良かったのですかと自問自答する日。
調整が必要なのは、どこの何だと?