Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

誘われたとしても

昨日の今日で奇遇なことだが、同窓会の誘いが。
それも電話で直接。顔も名前も記憶にない人からの電話。
掛けてくれた人を疑うわけではない。
きっと同窓会の係か何か、発起人なのだろう。
ご苦労様なことだ。しかし、葉書等の文書案内ではなく、
直接電話で連絡を取るというアナログな形に遭遇し、驚く。
そして、即答で断れなかった自分自身にも驚く。
これを逃したら、小学校の同窓会など二度と出られないのでは?
そんな気持ちにさせられるから? まだ子どもが小さい私と異なり、
みんなは悠々自適世代に突入しつつある。


それに顔を合わせたい人も無し、話題も無し、
彼の地に赴くこともない今、何故に同窓会の連絡が回ってきたのか。
おまけに申し訳ないことだが、電話を掛けてくれた人がわからない。
思い出すことが出来ない。同じクラスではなかったという。
小学校全体の同窓会らしい。
それにしても、場所も日時も電話だけで回ってくる。
そのアナログで直接的な伝達方法にも驚きを禁じ得ない。
葉書よりも断りにくい方法で連絡が回ってきたことに。
それに気圧されている自分自身に。
(ダイレクトメールならぬ売り込み電話は一言で切れるのに)

だから、「断ること」を覚えなさい! (PHP文庫)

だから、「断ること」を覚えなさい! (PHP文庫)

人づきあいのレッスン―自分と相手を受け入れる方法

人づきあいのレッスン―自分と相手を受け入れる方法


行くべきなのかどうなのか。
それよりも、どうして電話が回ってくるのか。
誰が電話番号を知っているのか。それさえも不思議。
電話を掛けてくれた人の声にも名前にも全く記憶が無い。
引っ越して、卒業までは越境通学。転校したも同様の卒業後。
小学校時代の友人と再会したのは、高校入学後。
しかし、それもごく僅か。顔見知りなれど交流は無い。
ましてや、小学校時代の同級生の名前も殆ど覚えていない。
地元との付き合いもないのだから。
それとも、今はやりのfacebook等でお互い連絡を取ったり、
知り合いの輪の中から情報を持っているのだろうか。


同窓会に出向いて楽しい思いが出来るというのは、
それなりの楽しい思い出があったからだろう。
もしくは思い出を共有したい強固な仲間、絆、友情、秘密、
懐かしさを超えて共有すべき何かがあるからだろう。
そういう関係を築き得た、もしくは持っている(と思っている)
人々は同窓会など開かずとも、自分たちの好きな時、都合の良い時に、
その気になれば幾らでも会う機会があるだろうに。


昨日、意を決して故人を偲ぶお茶会に出たが、
小学校の同窓会ともなると、それはまたそれで別の感慨。
利害関係のない世界で生きている今を、当時の印象や思い出に引きずられ、
詮無い思いをするのも沢山だという気がする。
先生が来られるという話もなかった。


一期一会は諸刃の剣だ。心の奥深い部分を揺さぶるとすれば、
揺さぶられることを望むか望まないかの決断を、自分に課すこととなる。
双方必要あって相まみえるならばいざ知らず、
受け流すも甘んじるも苦手なまま年を取り、
自らの感情を律することの出来ない人間、
積み残した過去を忘れることの方が楽な人間、
振り返る暇も惜しいほど現在に忙しい人間にとっては、
その一瞬が命取り。そんな気がする。
何かに気を取られて瞬殺されるような、切り刻まれるような気がする。


うわべだけ取り繕って笑顔を交わすような時間を、
今の自分は持つことが出来ないだろう。
演技、大人の振りをするのは仕事の延長だから出来ること。
そこまで自分を疲れさせたくない。
そんなふうに思い悩む。電話一本で千々に乱れる。


断る。拒否するということは、受諾とは別のエネルギーが要る。
これが葉書一枚の連絡、文字だけの連絡であれば、
どんなに楽だっただろうと。
消耗するエネルギーの多大さに人は思い悩まないのか。
悩む自分が愚かなのか。情けない。

「断る!」作法―もっと軽やかな人づきあいのための

「断る!」作法―もっと軽やかな人づきあいのための