Festina Lente2

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自分の歴史はどこに行く

昨夜のTV番組、NHKファミリーヒストリー
「俳優 浅野忠信 〜祖父はなぜ、アメリカに帰ったのか〜」
映画俳優の祖父に当たる人物を捜してアメリカへ。
家族のルーツを辿る内容にちょっと感動。ちょっと涙。
家族と別れ帰国し新しい家族を作った後も、日本に思いを残していた元兵士。
ずっと忘れることのなかった実の娘の写真を、死ぬまで財布に入れ肌身離さず。
ただただ一人の父親として、娘に愛情を注ぎたかったんだろうと。
その分、継子達を実の息子のようにかわいがって育てたのだろうと。


何十年もの時を超えて、人の思いや隠された過去、思い出、様々なもの。
夏の終戦近くになると、戦争の悲惨さだけを訴えた内容ではなく、
そこに庶民が、一市民がどのような思いで生きていたか。
戦争に携わった軍人が、一兵卒がどのように生き抜いたか。
そんな番組が増えてくる。
特に今年は、軍の上層部が如何に愚かしい利権争い、妄想、
非生産的なまとまりのない会議を開いて、何百万人も犠牲にしたか、
じんわりとつつくような内容の番組が多い。


その中にあって、制圧された側と進駐した側は、同じ人間であり、
時代を超えて流れる血、託された思いを一にし、
理解し結びつくことが出来ると、明るい話題で締めくくられた、
今日のファミリー・ヒストリー。
それはそれで感動したけれど、ふと、思い出す。
何か、似たような感覚、感触・・・。


そういえば、奴隷制度でアフリカから連れてこられて、アメリカで根付いた、
黒人の一家族のファミリヒストリーも、昔見た覚えが。
『ルーツ』クンタ・キンテの物語。あれも忘れられないものだった。
白人と黒人、その構図が何だかアメリカ人と日本人に置き換えられて、
見せられたような感覚があったのは、そのせいかもしれない。
わかり合える関係は、憎しみ会う関係にもなり得る。
理解できるはずが、理由無く忌み嫌う関係にもなり得る。
その人間社会の有様を、世代を超えて対立・反抗・闘争する哀しさ、
受け継がれる神話・昔話、家族の歴史、強い絆、
今の日本の社会で喪われようとしている様々なものが一緒くたになって、
8月のこの時期押し寄せてくるような気がする。

ファミリーヒストリー

ファミリーヒストリー

ルーツ 1 (現代教養文庫 971)

ルーツ 1 (現代教養文庫 971)


出張でしばらく職場、現場、仕事場を離れていると、
たったの4、5日の空白でさえも、随分大きな壁になって
日常業務に立ちはだかる様な感じがする。違和感の大きい昨日今日。
細切れになった予定表の上を、よろよろ渡り歩いている葉月の始め。
また明日も出張・研修。ルーティンワークから離れられる、
普段と違うことが出来る嬉しさ。と、同時に複雑な思いも。
新しいことを吸収したい意欲はあっても、肝心の記憶力や集中力、
脳が活動するために必要な「基礎的な知的体力」とでもいえるものが
日々衰えているのを実感するだけに、機械(例えば録音機やカメラ)に
頼ってしまう自分を忌々しく思いながら準備をしている。


瞬発力。思うに物事を考えるだけではなく行動を起こすにしろ、
何かを受け入れるにせよ、一気に立ち上がり駆け出すことが出来るような瞬発力、
そういうものがどんどん減っていっている。
体の一部分が軽く痺れて、いつまで経ってもその痺れ館が取れないように、
どういう訳か、以前の状態に戻れない、戻らない。
そして、それは一時的なものではなく、不可逆的な変化に近いもの、
そういうものだったのだと改めて気付かされて愕然とする。


思い出せない、思い出すのに時間が掛かる、思い出したと思っていたのに違う、
全く思い違い・記憶違いをしていたようだと気付かされる時、
何か自分の保持してきたはずの感覚や概念が、断りもなく当然の筈の部分、
根本的な認識の底の部分に穴を開いてしまったのように、愕然とする。
いつの間に、どうしてこんなことが、こうだと思っていたのに、
これくらい出来るはずだと、確かこれがこうなって、
・・・毎日その繰り返しが少しずつ増えているような、そんな気がする。
それとも、みんなこういう日常を繰り返しながら、
いつの間にか年を取ったなあ、疲れるのが早くなったねえと、
諦めるものなのだろうか。


個人の中では風化してはならぬ物が風化していくのに、
社会の中ではそれは許したくない、許されてはならないと、
公のメディアの力で掘り起こされて光が当てられる。
しかし、個人の記憶や生活の中で、当たり前のようにすり減りすり切れ、
戦争でもない事故や病気や加齢によるもので喪われていくものは、
取り立てて問題にもされない。時々奇特な例として、話題になったり、
症例として取り上げられたりする。単にそれだけ。
数の多さで積み上げられて医学的には対処法が考慮工夫されるのだろうが、
日々の中で喪われていく外面的器質的なものに対しては目が行っても、
内面的精神的なものに関しては、身近なものでさえもどうしようも出来ない。


今は、自ら自分で自分を掘り起こせるように書き続けている。
そんな気がする。気が付けは、ブログは書き始めて丸5年を過ぎている。
文月晦日から葉月八月朔日に掛けてはそんな時だったというのに、
近づく前は覚えていて、いつの間にか通り過ぎている。
それが、何やら侘びしく寂しい。
自分の記憶はどこに行く。自分の歴史は、出来事は。
身の上一切合切は、一体いずこへ流れゆく。

記憶喪失になったぼくが見た世界 (朝日文庫)

記憶喪失になったぼくが見た世界 (朝日文庫)

ギヴァー 記憶を注ぐ者

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