Festina Lente2

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椅子に座りノートを取り

本日のキーワード:印象形成 クラウドシステム メディア 情報操作 

自分の興味のある分野を聞きかじり出来るのは、楽しい。
自由であること、強制されないこと、自分の知的好奇心が満足できること、
そういう1日が心を軽やかにしてくれる。
もっとも、「受け身の学習の安易さ」にとどまる覇気の無さを指摘されると辛いが。
それはともかくとして、がらがらと旅行ケースを引きずり、
階段教室ほどではないにしろ、かなりの広さの部屋に陣取り、
入れ替わり立ち替わり、丸1日話を聞いていると、
話す以上に受け身の立場は、本当に楽で楽で申し訳ないくらい。
こんなに色んなことを、座ったまま聞き流していていいんだろうか。
強制でもなく、義務でもない、自由に何かに参加して話を聞くことが、
こんなにもほっとするものだなんて・・・。


それにしても、印象形成の話を聞いていると印象操作を連想する。
判で押したように時間きっちり、席を立たずコンピューター画面を見ながら、
淡々と講義を続ける講師の、その姿勢にある意味驚かされた。
双方向的なやりとりがない、一方的な講義にならないのは、
効果的に差し挟まれる、プリント上に無い内容を説明があるせいか。
否が応でも紙面から顔を上げ、聞き手に注目せざるを得ない。


クラウドシステムの話では、そこに行き着く前に講師の話は爆発、いや、
ガス欠状態で雲散霧消、全然目標に達していない。
何を話したらいいのか、何から話せばいいのか、話し手が迷ったまま、
同じ所をぐるぐる回っているような状態で、尻切れトンボになってしまった。
実用的で具体的なことを話したかったのか、理論的で抽象的なことを話したかったのか、
何が何だかわからないまま、講義終了。聞き手としてはかなり欲求不満。
パワーポイントと同内容のプリントさえ渡せばいいというものではない。


メディア関連の話は、どちらかというと社会心理学、メディア論、マスコミ論。
朝のうちに印象形成の話を選択していたのは偶然だったけれど、
偶然見えない部分で話が繋がっていて良かったと思いながら、
エネルギッシュでアメリカナイズされたスタイルの講義に臨む。
話の枕も、執拗に畳み込む感じの自己紹介も、聞き手に対する柔らかな威嚇めいていて、
それもなかなかに紳士的な挑発、挑戦的な姿勢で宜しい。
紙面に気を取られないように何も資料を渡さず、映像資料を駆使して、
メディアがどのように嘘をつくのか、騙されているのは我々なのか
本当に嘘をついているのは我々の背後にいるものの存在か、
色んな方向から検証、示唆する辺りが楽しい。


マスメディアの中でも、テレビはスポンサーを持つことによって、
中立的な発言や表現から遠ざかり、CMに代表される「金の力」に影響され、
抜けることの出来ない泥沼に陥ってしまった話は、とても気に入った。
最も見返りを要求せず何かをする人間が少ないように、
企業が社会的責任という言葉を借りて、見返りを要求しているのは自明の理。
宣伝とはそういうもんだ。自分を知って貰いたい無意識の衝動が、
企業単位で動けば、社会的貢献度達成事業に変化してしまう。


それにしても、印象形成にせよ、情報操作にせよ、
いつ、どんな時に、どんな風に、誰から情報を吸い上げるか、
それだけで資料となる結果はデータとして異なった答の羅列になる。
データ、吸い上げられる情報、表現される内容はヒエラルキーそのもの、
属する階級、身分、社会構造によっても異なるために、
ある部分においては価値があり、ある場面においては無意味で、
双方にとっても大いに関係があっても、双方に有益かどうかはわからない。


予想はしていても、出たとこ勝負の部分もあるが、そのリスクを背負っても、
情報戦、情報操作、印象形成は必要だ。
意識的無意識的な個人の選択から、社会規模の有無までを左右する、
ある意味、一連の流れを背景に持って受け身なれど、
専門外の講義に触れることが出来た1日。たまにはこういう日もないとね。
自主的なお勉強は、心躍るものがある。
押しつけの研修ではなくて。

マクルーハンの光景 メディア論がみえる [理想の教室]

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