Festina Lente2

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いまだに敬老の日

本当だったら今日が敬老の日の筈なのに。
いまだ移動祝日というか、月曜日連休政策に馴染めない。
福祉や教育が軽視され、本当にまともな経済効果があるのか、
目の前の利益を上げるためだけに設定された月曜祝日。
連休は生活リズムにゆとりを与えてくれるどころか、
無駄な時間を増やしているような気がしてならない。


私自身スケジュールは9月が余りにもきつくてハードなので、
一見連休が増えるのははありがたくも思える。
しかし、休日出勤が2日も入っているので何にもならない。
現実、休めないことの苛立ちの方が大きいので、余計ストレスになる。
そんな感じ。何か、予定されている休日は非常に無駄な感じ。
たまたま秋分の日が金曜日なので、カレンダーが自然な三連休。
その方がかなり嬉しい。土日月連休よりも。


古い人間は頭を切り換えられないから、
いまだに10月10日は体育の日だと刻みつけられている。
だから、戦後は戦前の祝日を名前を変えてでも残すようにした。
日程は変わらず、時代は変わったことを意識させるために名称のみの変更。
その政策は賢かったと思う。


昔を忘れられない、以前の生活を懐かしむもの、侮蔑するもの、
様々な立場を取るとしても、脳内に刻みつけられた生活のリズム、
祝祭日の予定がそのまま確保されるということは、某かの安心感、
安定感を与えることになる。
根底を根こそぎ変えるのではなく、スライドさせて馴染ませる。
生活の基盤、無意識の領域にまで及ぶ心の負担は、その分軽くなる。


かつてキリスト教が「蛮族」と見なした地域に浸透していった時、
上から目線でむやみやたらと改宗を迫るのではなく、
土着の宗教・生活習慣・文化を取り入れ、
そこに利点を見つけてじわじわとキリスト教を浸透させていったように。
かつての神を、信仰の対象を卑下するのではなく、
同じ根本にあるものの変容、別の側面として、
懐柔しつつ説き伏せていったように。
だからクリスマスもイースターも、元は別の信仰・宗教観を背景に持つ。


紀元節天長節新嘗祭、そういうものは名称を変えて、
21世紀の社会に根付いているけれど、その他の祝日は?
連休さえ与えれば満足するだろうとの姑息な考えで
祝祭日を乱発するよりも、不自由や不便を感じながらも、
理由があって設定されたその日を大事にしたらどうなのか。
そんなふうに思ってしまう自分は考えが古い?


連休だってそう、実際、根本的な意味での休暇になっていない。
心身のゆとりを与えるような休暇の概念、
休むということに対するプラスイメージ、
経済効果だけを優先させない根本的なビジョンの取得、
イメージ獲得、教育、有効な政策が為されない限り、
「自分に与えられる真の休日は、この世を去ること」という思い込みは、
決して人の心から無くなることはないだろう。
特定の職業に限定するまでもなく、現代、日本社会、
心を病む人間も過労死も減らないだろうし、
自殺だって増えこそすれ減りはしないだろう、今のままでは。


働いた分報われない、働いても楽にならない、
精神的に認めて貰えないだけではなく、経済的な自立を保証されない。
ともすればそこにいたことが不運だった、まずかったと、
自分の生活基盤を否定され、貶められるような扱いを受ける。
天災に遭ってもそうなのだから、渡る世間の人災は鬼より怖い。


アウトプットばかりでインプットを保障されない生活。
心のバランスを崩して問題を起こすと、その職業や職場全体が非難される。
仕事は心優しく進んで引き受ける者に積み重なり、
どんな仕事でもそつなく出来る人間は誰よりも頑張り、
自分でも気付かないうちに、闇の中に落ちる。


祝祭日はハレの日であると同時に、心の闇を解放するものだった。
常に明るい晴れがましいことばかりを望んだり、
闇を抹殺しようとしたり、両極端なことは困る。
かといって曖昧模糊としたものばかりでも困る。
子どもの地団駄や我が儘じゃあるまいし、
抑制無き解放、無駄な発散させて、
「自由だ、ゆとりだ」などとふざけ過ぎてている。
収め処・鎮め処を教えもせず確保せぬまま、
「自己責任」なる言葉を押しつけて自分が責任から逃れようと、
弱者を無視、スルーする、ネグレクトするような政策が、
為政者が、社会構造がまかり通る今現在だ。

老害: 子ども世代は逃れられない

老害: 子ども世代は逃れられない


自分の地域さえちゃんとしていれば、どうでもいい。
言ったもん勝ち、先手必勝とばかり脅しを掛けたり揺さぶったり、
そんな駆け引きだけを楽しんでいるような、お偉方の動向を、
淡々と冷静に見るのではなく、偏って贔屓目に報道するメディア。
選挙戦で「切り捨て」と「仕分け」の恐怖政治とちらつかせる、
自分に連なるもののみ優遇しようという肝の小さい輩が跋扈する今。
子どもの読む漫画の世界のように、魑魅魍魎の類は現世に雨あられ


何かの寓話のよう。
「自分は口だ、栄養は自分が取っている」と、がなる。
俺がものを食べないと、おまえらみんな死ぬぞと脅す。
そんな感じ。政治家のものの言い方。
黙って心臓が動いていることを、
ひたすら動き続けていることを無視して、何も言えないと思っている。
庶民は、庶民如きはどうせ何も言えないと。


「口」は見える臓器なだけに、その奥の存在を知らなさすぎる。
新聞やニュースに溢れる選挙・政策関連のあれこれを聞く度に、
安易に設定されたカレンダーの祝祭日の如く、
庶民の生活感覚を根こそぎにし、
自分の意のままに動く存在のみを是とする、疎ましい存在を意識する。
教育の中に政治を、露骨な政策を組み込んで支配を強行する、
そんな選挙戦のニュースにもうんざり。


敬老の日」だろうが、どの祝祭日だろうが、
単なる経済効果の有る無しで物事を見ようとする国、
行政、施策、政治家、その背景を知らなさ過ぎる、
休みたくても休めないで、休みたくない時に休みを取らされる、
その虚しさをふと強く思う、9月15日。
そんな祝日、祭りで開放されるのは、何だというのか。
いっこうに慣れない、慣れたくない祝日が近づいている。
私の頭の中では今日が敬老の日。今日が秋祭りの日。
無理に連休の日にするのではなくて。

老いの幸福論 (青春新書インテリジェンス)

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老年の品格

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