Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

再び連休を待つ月曜

なかなか時間が過ぎ去っていくのが早いので、あっという間に月曜。
神無月も3日目となる週の初め。
昨年は出張を控えそれなりに張りのある月初めだったが、
その思い出の地、先祖のおわす土地、東北が震災に見舞われ、
はや半年以上が過ぎ去った。
仙台空港の全面開通を待って、帰省する準備に余念のない老父は、
齢(よわい)80を超えてもなお、思い出の地によすがを持つ。
それがいいことなのか、悪いことなのか。


宮城県人二世といえども、あちらこちらに飛び歩き、
大体は関西で過ごす人間なので、
土地柄のアイデンティティは今一つ、東北からは遠い。
家人と過ごした徳島、埼玉、その思い出も捨てがたい。
親子三人、家族のルーツは関西以外の所にあり、
思い出は時間と共に積み重なって量的なものは関西に根ざせど、
質的なものは、特に娘が幼かった頃に根ざすものは、
関西以外の地にいまだに深く残っているように感じる。


転勤で異国から帰国準備をしているブロ友の記事を読むに付け、
その人生の揺れ幅、母としての思い、妻としての思い、
個人としての様々な物思いに触れて、しばし考え込む。
私の生活は傍目には平穏無事。建前として、
大人は自分のぶれを恥も外聞もなく晒したりはしない。
それ故に、些細な取るに足らない日常の起伏も、
大鏡を通してみるように感じたり、
本当ならば大事に至るようなことも、視野に入らなかったり、
恣意的に脳内処理をしてしまっているから、
平穏無事に過ごす振りが出来るということを知っている。


だからこそ、自分と異なる世界に憧れ、
そっと記事だけでも読んでみたり、なぞってみたり、
重ね合わせてみたりして、その世界に触れた気分になる。
細切れの記録は、膨大な重なりを持つとしても、
読むことが可能な記事は時間的に限られていて、
なかなか過去記事にまでさかのぼって読むことは出来ない。


時々、自分の過去記事を遡っている記録を見て、
学術的にも写真の上でも、連続した内容のない
単なる日記の類に、何を求めて? と思う時もある。
極端に遡って読まれていることがあると、
非日常的な訪問者がやって来たのだなと。
特に、遅れて記事をアップすることが日常と化した、
仕事の忙しい気ぜわしい9月はそういう訪問者が多かったのか。
連日、マイナーな個人日記ブログに300人を超える訪問を頂いた。


ゆっくりのんびり、時間の空いている時に、
何とか日常生活の記録をとどめておこう、老後の楽しみ?
指先の鍛錬? 文字を書くのでも綴るのもはなく、
キーを叩く時間を捻り出す日々。
私の心は仕事よりも、再び連休を待つたわいないもの。
仕事の段取りをつけて、それなりの目安を持てば、
あとは何とか一里塚を目指すように、次の予定へと歩を進める。


やりたいことは沢山あるはず。優先順位を付けるのは哀しい。
やらなければならないことの方が沢山あるはず。だから空しい。
大人として当たり前に年を重ねていくということは、
頭を空白にして、たわいなく過ごすことにも工夫がいる。
せっかくふらふらと歩き回ってひととき酔い心地になったとしても、
すぐに酔いは醒め、現実が目白押し。
魔法のように食べ物は出てこず、部屋は汚れ放題、
洗い物はたまり、予定表とにらめっこして、
ぐーたらすごす隙間時間を見つけようとしている。


最善を尽くすのではなく、やり過ごすことにたけ、
それで毎日を繋いでいることに後ろめたい日々。
その裂け目を「どん」と感じる月曜日の1日。
一瞬一瞬に気合いと、漏れていく覇気とやる気、
性能の悪い鞴(ふいご)のような自分の精神力に、
せっせと風を送るモチベーションを探しながら、
心は週末、再びの連休待ちであることよ。

ショスタコーヴィチ:交響曲第2番「10月革命に捧ぐ」、第3番「メーデー」、バレエ組曲「ボルト」

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