Festina Lente2

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星の王子さまの呼び声

休日出勤。はっきり言って休みたかった。
今日は特に仕事はないといってもいい。
単に頭数としてかり出されているのだ。
はっきり言ってもっと数を削って動員すればいいと思う。
ゆっくり体を横にしたかった。
というか、職場の雰囲気の中に自分を置いて呼吸すること自体、
貴重の休日の時間が搾取されているという、怒りが沸き上がる。
働いている人間ならば、当たり前だと?
その当たり前は以前にはなかったもの、今、付け加わったもの、
はっきり言って、何の価値もないと言ってもいい気休めだというのに、
誰もそれを口に出さず、動けば成果があると思っている。
実績のための実績アリバイ作りの奔走するなんて、
馬鹿馬鹿しいにも程がある。



このどうしようもない苛立ち、意味のないことに業務として携わること、
報われない思い、感覚がのしかかってくるのは否めない。
代休があったとしても、それは土曜日ではない。
大事なのは土曜日に休むことなのだ。家族と一緒に休めることなのだ。
給料が上がるわけでもなく、特別手当が出るわけでもない。
家族と過ごす時間を、ただでさえ少ない貴重な時間を削られて、
平日「家族といるのが当たり前」の人には、代休何ぞ貰っても、
価値があるとは限らない休日という感覚、わかんないだろうな。
心の中で毒づきながら、勉強会へ向かう。



そう、今日は久しぶりの勉強会。余りにも久しぶりすぎて、
その場に行くのさえも憚られる、20代の私ならばとても行けない。 
1年以上ブランクだった勉強の再開。いやあ、冷や汗。
わかることはわかるんだけれど、説明を聞いてわかるのと、
自分一人で実際にやってみるのは全く別物。ああ、頭が痛い。



久しぶりに来てみれば、界隈の馴染みの店は潰れて跡形もなく、
新しい店が出来、街の景色は半年もすれば随分変わっている。
目的があるとはいえ、疎遠になっていた場所、
久しぶりに来るのは抵抗がある。
どうやってそこに入っていけばいいのか、かなり苦しいものの、
年の功なのか、単なる厚かましさなのか。


そんな私に今日の「小さな出会い」を与えてくれたのは、
勉強会前に夕食に入った久しぶりの、馴染みの店。
晩のメニューは三つしかない。デザートは手作り。
出来たり消えたりの浮き世の習いで疎遠となりる店も多い中、
二度と辿り着けず、味わえずぬあの店この店。
そんな不況の中で、ここは3周年を迎えている。


勉強会前のひととき、夕食に入ったこの馴染みの店で、
私は目に見えないものの意志を感じる。
今日ここに私を引き寄せたものの。
それは一体何だったのか。星の王子さまの呼び声?
吸い寄せられるように、古い本の中の記事が私を呼んだ。
そうとしか思えない。今日の夕方。


偶然とはいえ、知った『星の王子様』の翻訳者の息子の訃報。
先日亡くなったばかりの内藤初穂へのインタビュー記事を
訃報を新聞で見た翌日に、目にするとは。
その父親、内藤濯について語る息子の記事を目にするとは。
これぞ、シンクロニシティでなくて何なのか。
一昨年の雑誌がその店に置いてあったことも、
何気なく私がその雑誌を手にしたことも。



そして、『星の王子様』の翻訳者である彼の父、内藤濯(あろう)の特集記事。
明治時代ネイティブのフランス人から耳で覚えたフランス語の世界、
言葉の響き、パロールを大切にする翻訳を行った彼の人生の集大成とも言える、
口述筆記を持って為された翻訳。
年齢のために書痙になっていたことが幸か不幸か、
息子の読めに書き取らせ、朗読させながら言葉を探したという翻訳の、
独特の言い回し言葉の響きが今もなお、根強いファンを持つ『星の王子さま』。


  


雑誌『クーネル』の特集記事で心癒される。星の王子様の世界の背景。
ああ、まさか、ここでこの記事に出会うなんて。
「声に出して読んで美しい日本語を」そう、そうなのよ!
内藤濯がフランス人から直接学んだ言葉の世界、
マチネ・ポエチック運動、随分懐かしい文学史で学んだ世界の用語。
心の奥にきらりと思い出の福永武彦
フランスで学んだこと、言葉の世界、音の響き、
そして、単に正確であるだけでは「伝えきれない」ことがあること。

星の王子さま―オリジナル版

星の王子さま―オリジナル版

星の王子さま (集英社文庫)

星の王子さま (集英社文庫)


濯がサン・テグジュペリのこの本を日本語に訳した時、彼同様、
口述筆記を頼んで訳していたとは知らなかった。
晩年に近い高齢で、ある意味、自分の仕事の仕上げのような形で、
翻訳された「大人の童話」という言うべき一冊は、今では多少古めかしいが、
柔らかい言葉で表現されている。慣れてしまった耳にはこちらの方が読み易い。
それは、何度も何度も声に出して読ませて翻訳に手を入れていたからだという。


  


版権が切れて、あまたの訳が出されているという『星の王子様』。
自分の日本語の感覚というものさえできあがっていない人間が、
あれこれ洗練されていない言葉で先入観を持たされるのはどうかと思うのだが、
出版業界も商売、沢山の訳を売り出して儲けなければ、
誰かの訳だけに頼って売れないのは困ると言うことなのだろう。
研究者はその差異を見つけるために飛びつくだろうし。
象牙の塔で生きている人の一家言には、格好の材料なのだろうし。



最近の『星の王子様』は池澤夏樹の訳が人気なのだそうだ。
何のことはない、マチネポエチック運動に関わっていた、
あの福永武彦の息子だ。もっとも、彼自身は
私が好きな作家であったその父親との繋がりを、
どのように把握しているか知らないが。
(どちらかというと、その生い立ちからして「関係ない」という姿勢を
 貫いているようにも見えるし・・・)
でも、蛙の子は蛙なのだなと思い当たって・・・。



そうか、内藤濯の息子、内藤初穂の訃報記事を見たのは、
私にとっては単なる偶然ではなかったのだなと、
心の中に張り巡らされた記憶の糸を辿りながら、店を出る。
少し幸せな気分で。
ブランクのあった勉強会。休日出勤の後の夕暮れ、
背中を押してくれるのは、こんな他愛もない出会い。
文字の中から語りかけてくる暖かい思い出、
芯のあるポリシー。


新しい言葉の響きの世界がどうこうというのではなく、
革命とも言える乱世、明治を生き抜いた人が、
体当たりで学んび掴んだ生きた言葉が、
けっして「古めかしさ」ではない平易さを伴っていることに、
改めて敬意を表したい思いに駆られる、今日この頃。


自分の言葉も乱れ、何だか変な話し方をしている、
アクセントもインとネーションも、どこの誰だか、
何だか自分ではないような、そもそも自分の話し方、
自分の言葉はどこにあるのか、あったのか、
考えさせられる日々。
言葉を発する自分はどこに立っているのかを。


ああ、まだまだ学びたい、何かを。
肝心なことは目に見えない。
だから。

星の王子の影とかたちと

星の王子の影とかたちと

星の王子とわたし

星の王子とわたし