Festina Lente2

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「ステキな金縛り」を見て思う

せっせと掃除に洗濯、布団干しまで頑張って、夕方空き時間。
出かけた娘をピックアップ。時間に遅れてご免。
かねてより話題の『素敵な金縛り』を観に行く。
気楽に笑える気分転換の映画を見たかったから。
先輩ブログこちら→に解説が詳しい。登場人物写真付き。
なので粗筋は省略。この紹介記事で見た気分になれる!?


TVを見てもドラマを見ても人気俳優は限られているから、またぁという気持ちになる
特にベテラン西田敏行を持ってきたら、当たるだろう。
三谷幸喜脚本なら観客は動かせるだろうという、そんな感じの仕上がり。
ただ、舞台の雰囲気が映画のそこここにも出てくるので、
劇中劇のシーンが映画の中に多いのが特徴か。
普段の顔とは異なるメイクで別人のようになって出てくる、
そんな俳優さんのギャップを楽しめる作品でもあったが。


颯爽とした新撰組の土方さんのイメージからいやらしいにやけた男性へ、
知的でぼんやりおっとりした雰囲気から厚化粧の高飛車なマダムへ、
男性も女性もメイクと服装で雰囲気が変わるから楽しいのだが、
今回は落ち武者の格好の西田敏行が一番派手な異装だというのに、
西田敏行以外の何者でもあり得ないというのが・・・。
出演していても、え、これ誰だったっけ? という感じで出られる作品、
もう彼には残されていないのかしらん?


人情家で涙もろくて暖かくてどこか抜けててって、
大多数の日本人が好ましく思う人物像そのものだから、悪役になり得ない。
沈着冷静、頭脳明晰、非情剛胆にして容姿端麗なんてスターは、
なかなか日本映画の中にはいないのよっていわれたら、それまでだけれど。
それにしても、日本人の心性なのか何なのか、
「恨み晴らさでおくものか」のおどろおどろしたものよりも、
「やり残した事への執着」と置き換えれば、あっという間に感情移入。
単純なプロットほど伏線は山ほど隠せる。


殺人事件の被害者、若くして亡くなった父とその娘、無念の落ち武者とその子孫、
敏腕検事の心の隙間を埋めていたものは・・・。
人も動物も死霊も天国からの役人も巻き込んでのドタバタ。
この辺は脚本家の面目躍如なるものなのだろうけれど・・・、
思わず彼自身の私生活もちらりと盛り込まれていたのだろうかと勘ぐったり、
想像してしまった下世話な自分がいたりしたのでした。


人間、行動すれば結果が付きもの。
まあ、何も行動しなくてもそれなりの結果が来るけれど、
望んで事が成就する訳でも無し、望まなくても、
勝手に幸不幸が手を携えてやってくることもあるし。
だから「運命だった」と言ってしまえば、有無を言わさず。
「もう少しどうにか出来たかも知れなかったのに」となると、
その責任の一端は自分にある、もしくは他人のせいということになり、
煩悩は限りなく刺激されることになる。
あらゆる場面を想定して悶々とするシミュレーション、
仮想世界でも悩み続ける泥沼に。

「ステキな金縛り」オリジナル・サウンドトラック

「ステキな金縛り」オリジナル・サウンドトラック

監督だもの 三谷幸喜の映画監督日記

監督だもの 三谷幸喜の映画監督日記


人間はいつでも何かを引きずっている。
思い残すことなんて無いと言い切れる潔い人生、滅多にない。
傍目から見れば人が羨むような幸福な人生に見えたとしても、
本人の中では解決し切れていない、納得できていない、
腑に落ちない、今でも心残りでたまらないものはあるわけで・・・。
「もしもあの時・・・」を言い出せばきりがないし、
やり残した仕事、伝えきれなかった思い、無念残念心残り、
そういうものが全て目に見える形で存在していたら、
幽霊なんかよりも具体的過ぎて、もっと恐ろしいと思うのだけれど。


心置きなく「成仏」することの難しさ、生きる時間の短さ、
明日をも知らぬ生活のままならぬ事よ。
「朝(あした)に紅顔、夕べに白骨」が世の習いとはいえ、
先に逝ったものがずっと生きているものを見守っているということは、
有り難くもあり、申し訳なくもあり、一度結んだ関係の連なりは、
生き死にに関係なく連綿と続くものだと思うと、
少々それも重すぎるありがたさではあるなあと、罰当たりにも考えてしまう。


だから、死者は物言わぬそんざいなのだ。
何か言いたそうにしていても、自分からは口を開かぬ。
本来はそういうものだ。察して余りあると受け取るのは、
常に残された生者の側であり、こちら側の世界の基準で考えるに過ぎぬ。
生から解き放たれて、霊的な存在となったあちら側の思いは、
こちらの基準で推し量って良いものなのかどうかは、わからない。


だからこそ、生きている今を楽しめ、なのだろう。
悔いの無いように。全うに生きていても裏切られることもある。
突然の理不尽な命の断たれ方もある。
自らが望んでいたような「畳の上での死」や看取りがあるなどと、
どうして確信できようか。だから、芝居の中で映画の世界で、
ささやかに願望を充足し、見えぬものに感謝し、思いを馳せ、
自らが逝く先を少しばかり安心して受け入れていたい。
そういうものなのでは無かろうか。


娘と二人、この映画を見ながら、
それほど遠くない未来、壮年となった娘を、
こういう風に見守っている自分がいるかも知れない世界を、
ほんのちょっぴり想像して、センチメンタルになってしまったかーちゃん。
愛するものが、大切なものがいつも自分の側にいて欲しいと、
望まれるうちが花。望んでも思い出して貰えるかどうか。
人は忘れ去られることが最も恐ろしい。
その存在を全く無きものに還元されてしまうことが。
その痕跡を消されてしまうことが。


だから、今を生きている人間は感謝しなければならない。
この世にまだ、残されている人間は。
無数の存在に、自分が知らない、図り知ることの出来ない、
様々な繋がりがどこかであっただろう、今までの世界に。
今、受け継いでいるもの、引き継がされたものを、
与えられたものを、どのように受け止めているか、
その存在、命、人間関係、環境、世界、すべて。
そんなふうにしんみりと思いながら、11月半ばを迎えている夜。

死ぬときに後悔すること25

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