Festina Lente2

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『グーグーだって猫である』を見る

どうも、疲れが祟って先週から気分は悪かったが、
今日は声が出ない(むろん無理すれば出る)感じで、早退。
滅多に日頃から早退なんぞしない私の想定外の帰宅に、娘も驚く。
食欲がないわけではない。美味しい物が食べたい。
私が作らないと悲惨な家の食事は、この際遠慮しておきたい。
というか、食欲もなくベッドに倒れ込む。


とにかく、寝る。寝て、ひたすら寝て、それでも目が醒めて、
どうやら、4時間足らず寝たらしい。
ああ、一日の睡眠時間を消費してしまった。
階下に降りていくと、何故か台所の電気が付いている。
TVをつけると、待っていたように映画が始まる。
あ、今日はこの日だったのか。


しかし、偶然見たとはいえ、見て損した気分。
大島弓子は漫画で読むに限る。
実話に基づいた実写化には、兼ねてから反対だったので、
映画館にも観に行かなかったのだが・・・、やはりひどい。
関東文化圏の人間には受け入れやすい景色なのだろうか。
吉祥寺の宣伝と、何となく画面をはみ出しそうなお笑い3人組と、
どこがいいのかわからないがよく使われる若手女優が
あちらこちらうごめいていて、暑苦しい画面。
テンションの低い状況にある主人公の周囲を盛り上げているつもりか?


猫好きの人間には、楽しい映画だったのだろうか。
大島弓子のファンには、面白い映画だったのだろうか。
私は小さな親切余計なお世話的映画だとしか思えない。
作品世界を冒涜されたようで、余計苦しい。
ファンは、作家の生活を垣間見ようと思う人間ばかりではない。
充分距離を取っていたいと思っている人間もいる。


猫好きの人間。かつて私も何匹も猫を飼った。
犬も飼った。インコも。動物たちはみんな先に死ぬ。
その衝撃に、衝撃の大きさに、なかなか慣れないのは、いつも同じ。
それにしても、・・・後味の悪い映画だった。
漫画のように、軽くは閉じられない。
現実はいつも重いものだ。それを、敢えて軽く閉じようとするなど。
そこに希望があるように見せるなど。
いつの世にも会者定離。動物を飼うという行為は、別れを伴う。

グーグーだって猫である

グーグーだって猫である


あちらこちらに猫を愛する人のブログは沢山あれど、
大島弓子の作品をいまだに愛する人は沢山あれど、
猫そのものだけなら、猫だけなら写真でも実写でも構わない。
しかし、まだ生きている少女漫画家を女優に演じて貰うのは・・・。
おまけにとってつけたような周囲のアシスタント達のドタバタも。


フィクションノンフィクション、現実と非現実を織り交ぜて、
リアル実写化して貰いたくなかった『グーグーだって猫である』だった。
漫画で読むのは構わない。ファンは実写で見たかったのだろうか。
それがファンというものなのだろうか。
そこまで知りたいと思ったことはない、想像したこともない私は、
冷たい人間なんだろうか。


沢山好きな作家も漫画家も画家もいる。時折ふとリアルタイムの私生活を、
漏れ聞き目にすることもままあるが、望んで追っかけようとも思わないし、
敢えて知ろうとも思わない。
変な言い方だが、内輪で知って盛り上がるのはわかる。
でも、そういう気持ちはその他大勢と共有したいものではない。
敢えて狭い世界でしっとりと共有したいものではないのか。


そんなふうに思いながらこの映画を見てしまった。
一度寝てから目覚めてTVのスィッチを入れると、これが始まるとは。
高校時代、すぐに理解しのめり込むことの出来た萩尾望都とは異なり、
大島弓子の作品はのめり込むには疲れる世界だった。
よく考えてもわかりにくい独特の世界観を持っていた。
自分が成長したのかどうか、多少少女らしい機微を備えた時期が、
人様よりも遅かったせいか、20歳を超えてから受け入れられるようになったものの、
何かに強烈ににのめり込んでいくような一途さは、ある意味、
自分にはないものであり、それはそれで恐ろしものだった。


そういう切なさ、一途な強さを持ち合わせていない人間は、
繊細でもなく感受性が鋭いわけではない、
「私の世界がわからないなら来なくていいのよ」宣言をされているようで、
多くの少女漫画とは異なり、敷居が高かったものだ。
おそらく私と同様、ファンの多くは『綿の国星』以降の作品群の方が、
取っつきやすかったのではなかろうか。
おそらく多くの猫ファンを巻き込んだのは、あの作品だったはず。

綿の国星 (第1巻) (白泉社文庫)

綿の国星 (第1巻) (白泉社文庫)


それしても、映画で見てしまったが疲れた。
グーグーだって猫である』は漫画で読むだけで充分。
そしてこの記事を書いている私は、グーグーがもう亡くなっているのを知っている。
私自身、様々なペットを飼い、何匹も見送って来たから、
「家族の一員」を失う辛さもよくわかる。


でも、この映画の世界を否定したいというか、身近に感じたくない。
実写化に抵抗を感じる。
というか、流行の若手女優を使う消耗品的な作品の仕上がりに、うんざりさせられた。
そういう意味では、大島弓子の世界を勝手に創り変えられたような軽い憤りで一杯。
熱烈なファンはどう感じているか知らないけれど。
まさか、この映画が「猫と人間の癒し」の関係の世界だとでも?
ありえない。
そこまで感情移入してしまう状況の方が、怖い。
頭では理解できるが、のめり込みたくないかつての大島弓子の世界観が、
蘇ったような印象を受けた映画だった。

オオシマさんちのもうひとつの猫日記

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ちびねこ絵本 (白泉社文庫 お 1-19)

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