Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

乖離する日々

歴史的な建造物を見るのが好きだ。
美術館・博物館を初め、鑑賞することが好きだ。
音楽のように目で見えないものは、言葉にしてその感動を伝えにくい。
写真という武器は、視覚に訴えて「見たもの」を伝えられる。
それはそれで楽しい日記の作業、ブログの更新。
されど、デジカメを使うようになってから吟味して写真を撮らず、
やたら「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」式に撮り溜めてしまうので、
娘のアルバム整理どころか、ブログの更新も滞り勝ち。
それどころか、気鬱になれば膨大な枚数の写真を見る気力も起こらない。
夏炉冬扇の如き個人的な楽しみの日記も、時間を食うばかりの作業となりつつある。


かつて憧れのブログがあった。
残念なことに部屋主の突然の死によって、更新は止まってしまった。
されど訪問者は引きも切らない。
美術芸術音楽文学、様々な話題に触れて筆を運ぶその世界、
思わず引き込まれてしまう多彩な世界に触れたくて足を運ぶ人は、
私以外にも多かったはず。
その人が亡くなってから半年余りで、何の前触れもなく消去され、
訪ねることは叶わなくなってしまった。
あの含蓄、蘊蓄、知識、博識な世界に遊ぶことは二度と出来ない。


そのブログを通じて新しく見つけた部屋があった。
未だ親しく行き来できるほどの仲ではないものの、
こちらからは熱い思いでその世界を読ませて頂いている。
私が訪れることの出来ない東西の美術展、様々な歴史的建造物、
博物館や展覧会の話題が記されているその世界に遊ぶたび、
こういう毎日を過ごせる人はどんな生活を送っているのだろうと、
どんな仕事をしているのだろうと思ってしまうのだが、
詮索はさておき、ただただひたすら羨ましい。


周囲からは夏炉冬扇の如き趣味とあざ笑われる趣味の世界。
部屋の中は塵芥積もって、足の踏み場もない。
断捨離の世界から最も縁遠い毎日を送っている私が、
美術だ骨董だ、絵だ彫刻だとは笑止千万、頭の上の蠅を追え、
部屋を片付けて人間が住める部屋にしろと言われ続けて久しい。
実生活には役に立たぬ美意識の持ち主と言われても、否定できない。
家事育児は放りっぱなしで、仕事もままならない思いばかり募る。
自分の心はここにはない所にばかりあるのか。
本当にそうなのか、どうなのか。行きつ戻りつ。


見たいものがある。知りたいことがある。行きたい場所がある。
しかし、生活費を稼ぐための仕事がある毎日では叶わない。
先輩諸氏は、あと10年もしないうちに毎日が日曜日の日々が来るという。
されど、私には定年になっても成人になるかならぬかの娘がいる。
今現在足元の覚束ない老親がいる。
何もかも自分の望むとおりに生活など出来なくても当たり前。
それは我慢できる。
でも、毎日の仕事の余りと言えば余りな状態に、
自分の人生の時間が使われていくのかと思うと、
人から傲慢・贅沢と言われようとうんざりしてしまう。


そう、望み通りにならなくても、理想や目標通りにならなくても、
決して自分のせいではなく、思い通りに変わっていかないのが世界、
世間の有様。何もかも達成感を味わって満足、満喫できる仕事などあり得ない。
頭の中ではわかっていても、徒労感はいやましにまし、
あと2日3日の煩雑なやりくりに青息吐息になってしまう。
何も見たくない、聞きたくないという気持ちで一杯になってしまう。
デジカメに映るのは見たいもの、自分の肉眼で見る世界は見たくないもの。
そう感じる度に、自分の居場所がわからなくなる。
現実が疎ましく、ただただ疎ましくなる。
逆境と言う程の毎日ではないはずなのに、ひたすら耐え難い。


耐え難いと感じているうちは、贅沢なのだ。
本当にそうならば、何も感じたくないと感じるはず。
そう思いながら、今週末をひたすら待ち望んでいる。
真っ暗になっても帰れないまま。

いろいろずきん

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瞑想―祝祭の芸術

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