Festina Lente2

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小学校の卒業式

本日娘の卒業式。とうとう娘の小学校の卒業式。
それから今日はどんな日なのか。
沢山の電車が今日を最後に引退。例えば300系の新幹線。
そして中学生日記も最終回。


四半世紀も前の私のブレザーを着て、娘が出掛ける。
やや薄いモスグリーンのチェックのジャンパースカート。
この季節はまだまだ寒い。ただでさえ冷え込む体育館に、
ひらひらの装いは結構過酷。暖かく疲れないように臨んで欲しい。
だからウールの上等のグレーのブレザーを着せる。
四半世紀も洋服箪笥で眠っていた服が、娘にぴったりフィットする。


友達と教室に集合するため早めに出掛ける娘の後姿には、
もうランドセルは背負われていない。
今日の改まった髪型が気に入らないと不機嫌に出掛けていった。
おでこを出すのが恥ずかしくてならないと。
娘の姿を見送ってからも、あれこれ思い悩む。
ああ、地味なライトグレーのブレザーはどうだったか、
紺色の、何がしかのエンブレムの付いたブレザーを買ってやるべきだったか。
思い悩むうちに卒業生入場となる。
ああ、全員がピンクのかわいいコサージュを付けている。
良かった、妙にきりりとした印象が和らいでいる。


卒業式。娘の小学校の卒業式。
残念ながら涙の一滴も出なかった。
保育園の時は卒園式に胸が熱くなり感動したが。
「儀式」は限られた回数だけ臨むに限る。
仕事で儀式やイベントに慣れしてしまうと、舞台裏に当たる準備や手間、
演出や意図が見え見えで、そちらにばかり頭が行ってしまい、
自分自身の個人的な体験であるはずの「感動」がさっぱり出てこない。
全く湧き上がってこない。
叱咤激励しないと感覚が麻痺してしまっていて感じ取れない。
「慣れ」の向こうに、かすかすになった絞りかすのような思いが横たわっているばかり。
こんな醒めた気持ちで、たった一人の娘の大切な卒業式を迎えてしまった。


娘の顔を見れば愚痴や小言ばかりが出てきて、
何を褒めればいいのかわからない最近、このところ。
朝の御飯と味噌汁が好きなくらいで、蹴飛ばしてもなかなか起きてこぬ、
宵っ張りの朝寝坊の娘。(若い時は眠たいものなのかもしれないが)
一体何を基準に比較? 
いやいや、娘の良い所も見えなければ、今の仕事の良い所も見つけられない。
自分自身や家族にも。



苛立ちとやるせなさばかりが体の中に詰まっていて、
仕事に行くのも億劫。家事をこなすのも億劫。
予定があるから動いているけれど、
空のタンクにまだガソリンが残って良かったという感覚に近い。
どうしてここまで空虚な思いに駆られるのか。
育て上げたとは言えない、まだまだ中途の段階、これからが本番思春期。
これからが正念場とも言える時期、けれども親の出る幕は随分遠ざかった。
娘との距離は思いのほか空いてしまっている。
その空虚感、空疎感、自分自身の不完全燃焼感、
一体何がこの晴れがましい日を鬱々とさせるのだろう。



五風荘で夕食。やっとの思いで食事会。
卒業を機に「両親からの手紙」というものを、本日小学校で受け取った娘。
(正式には本人に渡すために書くよう、小学校から依頼されていたものだが)
家人が手書きなのにかーちゃんの手紙がワープロだったと非難される。
予想はしていたが、手書きで書く時間など無かった。
それに悪筆なので、私の字は読めない、
崩し字は解読するのに時間が掛かるといわれていて、
手書きで書く気も起きなかった。
(何故思うようにキーや鉛筆が握れないのか、
疲れだけではなかったのだと後からわかったことなのだが)


    

    

  


せっかくの五風荘でのご馳走。
やっとの思いで連れ出した老母と一緒では少々興ざめ。
生きてくれているだけでも有り難い母だけれど、
会話がなかなか成り立たないので辛さばかりが募る。
いやいや、贅沢を言ってはならぬ。
そう思いながらも、娘が小学校を卒業した感慨よりも、
将来を見越した6年生一貫教育を選ぶことが出来なかった、
そんなことばかりがが悔やまれる、夜。
ランドセル姿どころか、娘が中学生になる実感が湧かない。


    

    

  


淡々と食事の場に臨む娘。年のせいか、思いのほか食の進まぬ両親。
儀式に出ただけで必要以上の体力を消耗し、
鬱々とした思いで、食事の場に臨む目には庭のライトアップが眩しい。
仕事を休んで迎えた昨日今日に、疲れてしまっている自分。
大切な日だったのに、大切であることが重くて、疲れてしまっている。
ただただ、虚ろにきしんでいる自分。
「おめでとう」ではない、乾いた思いばかりがばくばくと広がる。
明日は休日出勤。