Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

蘇るもの、目新しきもの

実家のまな板。
新しく買ったのではない。
ごついまな板を何年も使い続けて、よく使う真ん中だけへこみ、
使い勝手が悪くなっていたのを、老父がどこに頼んできたのか、
削って来て貰ったという。まるでまったく新品のように蘇った。
それにしてもやや薄くなったが、最近の店で売っている薄手のまな板と変わらない。
以前のまな板が分厚くて立派過ぎたのか。ずいぶん軽くなった。
これならうっかり足の上に落としても大丈夫か、いや、そういう問題ではないが。


新しくなって、さらっぴん。蘇って、気持ちがいいことこの上ない。
まっさらな木の面、ピカピカの木目を眺めながらご飯を作る。
食材を切る心地よさ、ああ、こんな感触、この気持ち、久しぶり。
私が知る限りでは、実家のまな板は2代目。
つまり、四半世紀に一つしか「まな板」を買っていない計算。
それはそれで凄いけれど、木のまな板の心地よさ、
娘もこの感覚を受け継いで料理を覚えていってほしい。


食材一つ切る毎に、さっと水洗い。
野菜が表、肉と魚は裏。分けて使うのがお約束。
新しいまな板で切ると、料理まで上手になったような気がする。
へこみがなくなった平らな面が、切り口を綺麗にしてくれる。
ああ、気持ちがいい。
1枚のまな板で台所の水回りが光って見える。
まな板蘇りて料理への我が思い、いま少し蘇る。


そう、この手応えが、包丁への手応えが新鮮。
蘇る、我が家のまな板、料理への思い。
たとえ嗅覚が衰えようと、味覚が無くなった訳ではない。
香りがすべて消え失せてしまっているわけでもない。
その証拠に、新しき面(おもて)を見せるまな板に、心弾む。


目新しいもの。我が家の目新しいものはまだある。
私たちの眼鏡。自分には誂えた初遠近両用の眼鏡。
しかし、自分の眼鏡姿はもう見慣れて半世紀近く経つ。
どちらかというと、自然な視野が保たれて近くも遠くも見えるので嬉しい。
老眼になる前の自然な雰囲気が蘇ってきた感じ。


娘の新しい眼鏡。その眼鏡姿。
眼鏡をかけた面立ちの、今まで見慣れぬ娘の顔に不思議な気持ち。
娘の眼鏡は、幼かった、子供子どもした幼少期の姿が、
するりと脱皮して、娘むすめした姿に変化していく途中の、
少女期独特の近寄りがたさを醸し出す小道具のよう。


ああ、わが娘の面差しがこんな風に変化していくのかと、
母としてはやるせないような、嬉しいような、哀しいような、複雑な思い。
白い肌に、ともすれば紫に、海老茶に、光って見える眼鏡のつる。
星模様がついた辺りが今風か。
やや四角張ったフレームの向こうに、中学生然とした顔がある。


気持ち新たなるもの、娘の眼鏡姿も新鮮。
親の遺伝とはいえ、まだまだ軽度。
悲観せず、アンバランスになった視力が少しでも戻るのを期待しよう。
変化していく、その途中にあるもの。
気持ち一つのことなれど、小さな変化とはいうものの、
新鮮に感じて受け止めていく、そのことを大事にしよう。

まな板 (ものと人間の文化史)

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心地いい日本の道具

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