Festina Lente2

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更新をしない人?

日付だけを見たら、更新が滞っている人。
そんなふうに思われているんだろうなあ。


(心の中はリアルタイム9月16日)
もしかしたら思われているのだろうなあ、
この人、更新をしない人だ。
日付だけ見たら、そう思われても仕方ないなあ。
今まで3週間遅れぐらいで書いていたことはあったけれど、
3ヶ月遅れで記事をアップしているなんて、何のために?
そんなふうに思われても仕方ないなあ。


書きためている記事をアップしたり、付け足したり、
新たに書いてみたり、書いてあったのを没にしたり。
リアルタイムで読みに来てくれている人は、毎日居るけれど、
過去記事の特別な出来事を検索して読みに来る人が多いわけで、
医療系の記事は基本「患者としての経験」だったり、
「家族としての経験」であるから、同じ立場の人は、
ああ、やっぱりこうだったんだと思うだろうし、
そうじゃない人は、こういう場合もあるんだだろうし。


毎日300名ぐらいのアクセスがあるけれど、それは、一体、
どう解釈していいものか。わからないまま、いつが現実に、
リアルタイムに追いつけるかどうか、記事をアップしている。
基本、書きたいことは沢山ある。
書かない方がいいことも沢山ある。
基本、日記なので思ったままを書く。
書けないのは、色んなことがあり過ぎてしんどいから。
もしくは、書けば分析することになったり、
どかんと吐き出すことになるので、一応セーブ。


人の噂も七十五日、心の中にザワザワと渦が巻かないように、
子育ての節目、進学や受験、転勤や異動、配置転換や職務変更、
波風があって当然のことに晒されてくると、
余りに色んなことが多過ぎて、考えたり意識したりすることから
距離を取りたくなる。取らないとやっていけなくなる。
何も考えずに目の前にあることだけ「大人として」さくさくと、
片付けられるほど大人ではなかったんだなあと、
改めて意識すると、これはかなり辛い。


良くも悪くも、「想い出を整理」など言うけれど、
まだ生身で生きているので、色んなことが起こると、
燃やして灰にすることも出来ないので、澱が溜まる。
形だけ仕事をしていても、新しいことにチャレンジしてみても、
基本自分はあんまり変わっていないんじゃないか、
何だこれは? という気持ちを引きずって、
青少年に説くような「自己肯定感」「達成感」とはほど遠い、
徒労感だけが募っていくのを耐える「忍耐」や、
お馬鹿になって笑い飛ばしてしまう「諦め」を、
如何に上手に操るかに掛かってくるのか。


そうなのか、真剣に考える、感じるってこういう青臭い行為から、
「そんなこともあったよね」「あんなこともあったよね」で、
通りすがりになっていくことが、自分自身の人生の傍観者になることが、
やっぱり大事だったのかと、そんな夏炉冬扇の思いに浸っている。
「過去と他人は変えられない」
「自分だけは変えられる」
まあ、そうかも知れないけれど、時の流れは逆行しないし、
同じチャンスは二度と無い。


出会いも、人も仕事も、家族との時間も、何もかも、
軽く振り返れば軽いまま流れ、
重く振り返れば重くのしかかり、
何も書かなければ記録に残らず、
写真も撮らないまま過ぎてく、当たり前の日常。
その「当たり前に過ごせていること」がどれだけ大切か、
わかっていながらも、
ここまでやってきた、と思うべきなのか、
こんな所に来てしまった、と思うべきなのか。


考える技術ではなく、考えない技術を身に付けるための、
空白の期間を、だらけているようないないような、
何もしたくない、考えたくない意識したくない時間を、
スクリーンの前で取れなくなってきている、
麻薬のような「日記」に呻吟。
時間は待ってくれないのに、想い出は空白なようで、
無意識の底までびっしり魚の卵。


煮るなり焼くなり好きにすればいいものを、
いつもと同じ料理しかできない、
もしかしたら部屋の片付け、パンフレットの選別と一緒で、
大事なものどうでもいいものの区別が下手なだけかも。
そんな感じの思考回路。

ウインド&ワザリング(静寂の嵐)(紙ジャケット仕様)

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