Festina Lente2

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文学者の名前

沢山の絵本は、絵本だけに薄っぺらい。
図書カードというか、蔵書表が貼れないので、
大抵の場合、絵本の背表紙に貼ることが出来ず、
表表紙や裏表紙に貼られている。
せっかくの絵が途切れる場合もあり、何とも不細工だが、
そこは図書館の絵本、致し方ない。


旅の絵本 (2) (日本傑作絵本シリーズ)

旅の絵本 (2) (日本傑作絵本シリーズ)


もう一つ、絵本を読んだ子どもの頃、
お話は覚えても、作者が誰か覚えた記憶はない。
それもそのはず、作者がはっきりしない昔話が殆ど、
イソップだのアンデルセンは例外だった。
外国童話の世界はまだしも、日本の童話にも作者の記憶がない。
広介童話、ぐらいだろうか。それも、絵本ではなかった。
何しろ半世紀前が幼少期の人間にとって、
絵本にしろ普通の本にしろ、ある家は羨ましく、
友だちの家に遊びに行って本ばかり読むので、
「ちっとも遊ばない」と嫌われ呆れられたくらいだ。


おとぎの国を楽しむアンデルセンの切り紙―メルヘン切り紙133点を収録

おとぎの国を楽しむアンデルセンの切り紙―メルヘン切り紙133点を収録


蓮の茎から糸を取り出し、美しい織物に仕上げたお姫様の話。
挿絵が美しかった。(後から有名なお寺にまつわる話と知った)
算数や理科の実験の本が羨ましかった。
娘にその本を見つけて買っていたら、廃刊になってしまった。
親が毎月買い与えても、娘は見向きもしない場合場多かったが。


もう一度見たい!「科学」と「学習」 (Gakken Mook)

もう一度見たい!「科学」と「学習」 (Gakken Mook)


本をずらりと並べて背表紙を眺めるのが好きだった。
本棚が埋まっていく感覚が。順番通りに並べ、開けもせず、
ひたすら背表紙だけ眺めていても、その本の中にどんなお話があるか、
全て覚えていた。題名が書かれていなくても、覚えていた。
繰り返し繰り返し読んだ、世界の名作文学。
国の名前を覚え、地理を覚え、風土の違いを感じ、時代や歴史、
神話や伝説、聖書や日本の古典の口語訳、知らず知らず繰り返し覚えた。


ギリシア・ローマ神話辞典

ギリシア・ローマ神話辞典


背表紙には日本編、ドイツ編、フランス編、イタリア編、など書かれている。
いつか大きくなったら、その見知らぬ国々へ出かけたいと憧れ、
写真と名画と挿絵で満足した。今のようにインターネットなど無い時代。
カラー写真はひたすら美しかった。
本の装丁は、カヴァーを取っても美しかった。
本は読まなくても眺めているだけで、別の世界への入り口だった。



そこにはストーリーに溢れた世界が展開していたが、
小学校半ばから、物語には作者があることを意識し出す。
3年生ぐらいからだろうか。お話を作る人になりたいと、
そんな夢を持ち始めたのは。(叶いはしなかったが)

若草物語 (福音館文庫 古典童話)

若草物語 (福音館文庫 古典童話)


お話を作った人ばかりが背表紙に並んでいる本があった。
母親が持っていた筑摩の文学全集である。
親の持ち物なので、手に取ることは殆ど無かった。
箱に入っていてパラフィン紙で一冊一冊丁寧に包まれている。
出して箱に戻そうとすると、不器用な子どもにはなかなか至難の業。
薄紙が破れたり、よじれたりしてしまうので厄介だった。


 


つまり読みにくい、手に取りにくい本だった上に、
大人の本=漢字が一杯、おまけに旧仮名遣い。
とうとう読むこともなく、並べられた本の背表紙だけを覚えた。
漢字が読めなくても、象形文字を眺めるが如く、
背表紙ばかりを眺め暮らした。


家にある子供用の限られた本を読み尽くした後で、
読んでみたく手のでない本、大人の本は人の名前ばかり。
気が付くと、一人の名前しか書いていない本、
沢山の人の名前が書いてある本と別れている。



夏目漱石武者小路実篤山本有三小林秀雄など、
1冊に1人の本は背表紙が読み易かった。
泉鏡花徳富蘆花など二人書かれている本はまだしも、
1冊に4人も名前が書いてある本は、字が小さく読みにくかったし、
覚えにくくて、難渋した。
3人の本もあった。高村光太郎 萩原朔太郎 宮澤賢治


明治大正昭和と文学界に燦然と輝く人々の名を、
漫然と眺めていた。余りにも小さい字、難しい漢字、
それを読みこなす情熱もなく、母が大切にしていた余り、
手にとっては叱られると殆ど触れることもないまま、
筑摩の文学全集は並べられているばかり。



その漫然と眺めた順番、グループ、人の名前、
それが文学史の授業や暗記に強力な威力を発揮したのは、
10年以上経ってからのことだった。
文学者の名前は、読み込む作品ではなくて、
眺めるだけのもので終わってしまったのは残念だったが、
そこまでのご縁だったのだろう。


人の持ち物、本に手を付けて、踏み込んでいく勇気や、
知的好奇心よりも、恐れや面倒臭さの方が大きかったのだから、
仕方がない。そういう子どもだったし、結果的に、
そういう大人になってしまったのだけれど。


母は背表紙を並べて見せて、それとなく啓蒙してくれたかも知れないが、
凡庸な戦後生まれの娘には、
読めない字は読まない字、読まない本になってしまった。
同じ過ちをしてはならないと思ったが、後の祭り。
娘が世界の名作文学を読むことはないようだ。



ラノベとかいう、派手なイラストの漫画か文学か
よく分からないものに熱中。
かいけつゾロリ』『忍たま乱太郎』で育つとこうなるのか、
よく分からないが、本は読むが系統だって読むことはない。
きっと地理も世界史も苦手なまま大きくなるだろう。
文学者の名前も知らないまま。
何しろ彼女にとっての祖母の筑摩文学全集は、
手の届かない、簡単に見られない所に飾られているのだもの。
おばあちゃんの本で終わるだろう。手に取ることもなく。
背表紙を眺めることさえなく。

幼かりし日々 (ちくま文学の森)

幼かりし日々 (ちくま文学の森)