Festina Lente2

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老母80歳の誕生日

殆ど日長一日、寝床から出てこない。
けれども、記憶の底に残っているのか鉛筆を握りしめ、
いや、鉛筆であればまだいいのだが、サインペンや赤ペンを、
ボールペンの類を何本も身近において、新聞の山や雑誌その他、
赤線を引き、文字を写し、気づき上げるノートやメモの山、
しかし、それは意味を為しているのかいないのか。


布団やシーツ、枕カバーに文字を書いているのではないかと思うほど、
当初はうんざりしたのだが、唯一運動らしい運動、機能らしい機能、
動かしているのはペンを持った手というのが職業病の名残か。
誕生日のご馳走をみんなで食べに行った店も去年消え、
家族の誕生日を祝う近場の店が無くなって以来、
「ご馳走を食べに行こう」と誘っても、嫌だと言って出てこない。


10年間、どんどん止まっていく時計。消えていく記憶。
弱っていく手足、けれども今日は誕生日。
やっぱり、いつもより美味しい物を食べようよ。
頑として、外には出ないと言う。
「何か食べたいものない?」「美味しいお肉買ってきて」


娘は食卓に並んだステーキや刺身、味噌汁の膳に大喜び。
「おばあちゃん希望の、大好きなステーキだよ」
さっそくフォークとナイフで切り出す。
延々細かく切っていく。
そんなに切ってどうするのだろう。
(最初から切っておくと機嫌が悪くなるから、極力手を出さない)


大好きなお肉を食べるのだと思っていたら、
・・・脇のお刺身盛り合わせを平らげた。
デザートの葡萄を食べて、「ごちそうさまでした」
あれ? お肉は?
「もうお腹一杯だよ。」
「ええ−? 食べたいって言っていたお肉だよ、ステーキだよ」
「みんなで分けて食べていいよ」
「おばあちゃんの分だよ」


・・・大抵こうなる。好きな物を買ってきても買ってこなくても。
「おばあちゃんのお誕生日のご馳走だったのに」「あら、そう?」
「おばあちゃん80歳おめでとう」「え、誰が?」
「おばあちゃんだよ」「まだそんな歳じゃないよ、誰が80歳?」
「おばあちゃんに決まっているでしょ」「まだ50代だよ」
「それはお母さんだよ」「ええ? 50代だよ」


ふざけているのか何なのか。50代でいるつもりなのか。
でも、まあ、こんな会話も明日には忘れている。
娘は自分が祖父と買ってきたケーキを勧める。
「おばあちゃんどれがいい?」「これかな」
「今食べる?」「食べる」
所望のステーキは食べて貰えなかったが、
ケーキと紅茶は平らげて、布団に戻っていった。


再び穴蔵のような布団の住人。
でも、自分で食べてくれる体力だけは残っている。
食べたいって言ったものを忘れてしまったのか、
目の前に並んだら気が変わったのか分からない。
それでも、一緒に食卓について貰えただけで幸せ。



提出書類を出しにいった帰り、大阪市内の景色。


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