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原作者の嘆き―「ゲド戦記」

相変わらずの早朝覚醒で、一連の記事を眺める。
ネット上での匿名性とブログ管理者の正体を暴く方法が目立つ。
人は意識的にも無意識的にも自分の痕跡を残す生き物だと思うが。
よく小説や漫画でも「自分の遺伝子を残したくない」なんて台詞が
出てくるけれども、そう言明した時点で、
もはや遺伝子にこだわっている自分というものを
際立たせているじゃないか・・・なんて心の中で突っ込んでしまう。


今、読んでいて哀しいのは、「ゲド戦記」の原作者の
今回の映画化に対するコメント(日本語訳サイト)の数々。
まあ、これさえも原文で読まずに、何通りかの訳が
流布されているというところが、面白いが。
まあ、尾ひれでなくても、原文が記載されているから
読む気があれば読めるのだろうが。

ゲド戦記をリアルタイムで読み込んできた世代が、
最初三部作であったものが、すごいブランクを経て
継ぎ足されていった時も衝撃を受けた。
しかし、それは原作者が行った事であり
いかに違和感を覚えても如何ともし難い。
彼女には書く権利がある。読者のためではなく
自分のために。文章とはそういうものだ。
受け手のリクエストで書かれたものではない。
我々は甘んじて受け入れるしかない。
なのに、それを簡単に壊して垣根を越えた(様に見える)
存在が感じられれば必要以上に反発してしまうものなのだろう。


原作者自身が断固たる決意、意思、信念を持っているならば
もしくは、妄想や気の迷いのもとで世間に流されたとしても
それは、彼女自身の問題。それを公表するかどうかも。
それは、彼女の、原作者自身の変化。
我々には止めようが無い。我々の好みに関わらず展開する
原作者の世界にどうして踏み込めよう。


解釈は自由。それだけなのに。
自己満足の世界が受け入れられるかどうかは、別問題。
自己満足のつもりではなく、ある理想のもとに書かれたとしても
誰が受け入れるかは、誰に受け入れられるかどうかは別問題。
我々の解釈は、あくまでも受け手側の問題で、
自分勝手に創り上げている2次的なテキストと、
そのバリエーションに過ぎない。


自分の作品が、意図しない勝手な独り歩きを始めて、
ある時はパロディ化され、変形され、
訳のわからないものに換骨奪胎されても、
受け手側がそうしたかったから、
受け手側が「自分の物語」として組み替えて読み取るから
テキストの受け取られ方というのは、
作者の意図を正確に読み取る所には
もはや力点が置かれていない今の社会だから
(古典が生き続けるのは、新しい読み替えが可能だからだし)
原作者の嘆きは、
書いた瞬間から必然的に生まれてくるものだとしか
言いようが無い。とても残念なことだけれど。


確かに良い出来の映画ではないかも知れない。
有名な父親を乗り越えて、自分の世界を創り上げるためには
ジブリに泥を塗るという形での「父親殺し」が必要だったのかも知れない。
スレッドを立て直すように、新しく仕切りなおす。
リセットすることを望んでも、比較、批判、批評はついて回る2代目の宿命。
どの時点で、系図上の上層世界を壊したり、継ぎ足したりするか。
継いでも継がなくても、壊しても壊さなくても、
オリジナルではないと言われたら、全てそうではないのか? と
開き直らなくては、やっていけないこの世界。


原作者の嘆き。遺憾であると思うこと。
同じく、この映画を作った者にも、その立場からあるだろう。
常に「次代・二番手・後継者・息子」でなければならなかった存在。
原作者の思いは、尊重して受け止めてもらえる。
次の受け手の思いや、読者の立場の思いは
最初から尊重してはもらえない。
傲慢だと非難される事はあっても。
とりあえず「行動」してみたのだと言ったとしても。