Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

思考と行動との狭間で

あっという間に日が暮れる。今日もやっぱり残業で。
後から後から湧いて出る、もぐら叩きにも似た仕事の日々。
ライン上の仕事はほぼ順調でも、想定外で増える仕事、
飛び込みの対応で、後回しにされて持ち帰りになる仕事、
こういうものが積んでくると、如何ともし難くなる・・・。


仕事が増えれば増えるほど、
利益が上がるというものではないから、
疲労即症状になりかねない。
・・・という訳で、夕方から声が出ない。
昨夜帰宅してから、寒気がするなあと思いながら、
明け方近くまで仕事していたのが、悪かったんだろうなあ。
わかっちゃいるけど、やめられない。


ストレスドックの結果は「過剰なストレス状態」だってさ。
そりゃ、転勤と病気が1年交替で家人と自分にかぶさって来れば
ライフイベントは盛りだくさんだもの、仕方がないよ。
上手に処理できるはずだったのに、頭と体がバラバラだっただけ。
理論や理屈通りに、片が付かないから自分のマネジメントに失敗する。
仕事と同じように、自分を片付けられないで持て余す。


一気に片を付けたいというか、ある程度のノリがないと、
先に進んでいけない部分があるし、細かく手直ししたくなる時もある。
自分がどこまでこだわってやるかだけれど、考え事の8割は設計図で、
手順はまた別回路って感じ。幾つかのアイディアや段取りが、
明確なデザインを持って確定されるのではなく、
常に頭の中で線を描き続けて、最終的な1本を探している感じ。



頭の中の回転を持続させるには、痛みと同じく、
通奏低音を、絶えず響かせておかなければならない。
種無しパンでは、膨らませる事ができない・・・。
そう、ひたすら発酵するまで、膨らませておかなければ、
頭が働かないのだ。
そんな私の状態は、家人から見ると単に落ち込んでいるか、
ボーっと寝ているようにしか、見えないらしいが。
(いつまで膨張し続けるつもりだと思われているだろう)


ブログを書くようになってから、頭の中は少々配線が変わった気がする。
新しいシナプスが増えたのだろう。(と、思っておこう)
見たり聞いたり読んだりする事が、今までとは異なる火花を散らして、
頭の裏側に残像を結んでいる。そんな感じが増えてきた。
きっとこの刺激が、別の所に影響を及ぼすのだろう。
いや、きっと及ぼしているに違いない。


ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代

ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代

仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法

仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法


私は考え事を並行して行うことを知っている。しかし、体は一つ。
それ故、したくてもできない事を持て余し、優先順位を付けかね、
悩んで無駄な時間を過ごすことになる。全くアホだ。
これなら、シンプルにラインを保持して行動管理した方が、
経済的に機能しているといえるのに。
この「無駄」を、無駄と見るか個性と見るか・・・。
自分でも判断に苦しむ。



世間的に有能な人間には、定年までなれそうにないな・・・と思う。
まあ、それもどうでもいいことさ、という開き直りも持てる歳になった。
なのに、「こだわり」だけは、年年歳歳いや増しに増していくようだ。
この「こだわり」を、矜持と見るか拘泥と見るか・・・。
微妙だな。我ながら、ベン図の「交わり」にも「結び」にもなる心地。


教え、学び、語り、読み、見て、聞き、観て、聴き、診て、訊く日々。
このバランスを取るのが難しい。臨機応変に動くといっても、
我ながらうまく行ったなあ、という達成感を得られる事は少ない。
少ないというか、それほど多いわけではない。
しかし、仕事が根本的に好きなのだ。
仕事をしている自分が、好きなのだ。
仕事を離れて、常に別のことをしたがっているくせに、
別の自分に憧れているくせに、
仕事の無い生活を、想像するのが怖い。


夜は心に翼をつけて、
暮れなずむたそがれ時から一気に飛び立つ。
仕事でもあり、仕事でもなし。
物思う心、心ここに在らず彷徨う。
秋の日の、物思いの行く所、果てしなく。


「下手な考え休むに似たり」ってね。
だから、さあ、もうお休み。
夢の中でも仕事をする、私だから。


教え、学び、語り、読み、見て、聞き、観て、聴き、診て、訊く日々。
或いは立場を変えて、看ることもあれば、視ることもある。
その境界線は曖昧で、それでいて峻酷な透明の崖である。
知識と知恵と要領と雰囲気が作用する、絶壁。
一瞬の判断で変化する局面、形を変える空間。
2度と同じことを繰り返さない。生き物としての場。
一対多、一対一のバランスを、
実は一番必要としているのは自分
自分なのに。
ね。