Festina Lente2

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「父親たちの星条旗」に観る「いのち」

「いのち」と「からだ」が、即物的に描かれることの多い戦争映画。
かつて「プライベート・ライアン」を観た事があるので、
ある程度まで免疫が付いていると言っても、
あのノルマンディー上陸作戦の凄まじい浜辺の戦闘シーンを髣髴とさせる、
この「硫黄島」の戦闘シーンも、観ていて、ひたすら悲惨だった。
戦場を駆け回る衛生兵が、直視しなければならなかった、
「いのち」の在り方に圧倒された。


「こころ」が無いわけではない。
しかし、当たり前の「こころ」を持っていたら
「からだ」まで守れなくなってしまいそうな、
極限状況での「いのち」の在り方。
まるで「時代」というものが「いのち」を持っていて、
自分が持ち続けている過去からの過ち、出来事を通じて
フラッシュバックするトラウマを語り続ける
PTSDで成り立っているような映画だった。
そう、主人公である3人の若者を通して、
時代そのものが病んで、あの、白昼夢を彷徨う、
発作にも似た、エンドレスフラッシュバックの
メビウスの輪が、
スクリーンから飛び出してくるようだった。


人種差別、マスコミと政治、残された家族、親子の在り方、
時間と共に押し流されていく、思い出。
歴史の中に埋もれていく、「硫黄島」での出来事。
かけがえの無い命が、「バケツで回収」される羽目になる
累々と築かれる、死体の山として存在しなければならなかった、
過去。
殺す者と殺される者の、「いのち」と運命のネガポジ。
あっという間に反転し、運命がすり替えられる、苦痛。
死んだ者と生き残った者との間の、
余りのギャップに押し潰され、感覚が麻痺しそうになる。
「死体」が「遺体」ではなく、モノとして並べられている。
モノとして、抜け殻として、「いのち」の器が、
無残に破壊されて・・・。


その画面から聞こえる、無数の悲鳴に
苛まれるように、座っていた真夜中。
「こころ」を忘れるために、「からだ」があるかのような戦場、
父親として伝えきれなかった想い、記憶、言葉、全てが
静かなラストシーンに凝縮されていく。
まるで、子供に返ったような、まるで禊のような、
浜辺でのシーンに収束されて、消えていく。
クリント・イーストウッドのギターの響きと共に。


そこには音楽があっても、癒しきれない魂が彷徨っている。
「からだ」と切り離されて、バラバラの記憶の断片にされた
「こころ」が、いつまでも彷徨っている。