Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

「自分を守る」という修辞

せっかくですから、真面目な話題も少し。
この現場で生きていると、どうしても避けられない話題。
親子関係、特に母子関係がクローズアップされがち。
虐待が話題になる昨今、テレビドラマなどの影響で、
アダルトチルドレン共依存・トラウマという言葉も
当たり前のように使われている日常。


(ちなみに、「アダルトチルドレン」と聞くと
 この頃は「小泉チルドレン」を連想して、イメージが・・・)


「こども」が主人公のケースカンファレンスの場合、
CLである子供に対して、個人であれチームであれ
COとしての関わり、ラポールが形成されている場合、
一つの救いは、その未来に向かって現在の関わりが
基本的信頼感につながり、心理的基盤として機能し、
その子の未来を変える、
もしくは救う可能性があるだろうということだ。


楽天主義ではないが、大人よりも子供が変化する力は大きい。
悪くなる時も良くなる時も一気であることも珍しくない。
もちろん時間が掛かって少しずつということもあるが。
少なくとも暗澹たる未来よりも、終結されないまま、
次のステージに持ち越されるにしても、
真剣に関わった存在を、CLである子供の側が信じることができるならば、
将来HELPを求めることができるだろうということ。
我々はそこに賭けている、と言ってもいい。

グサリとくる一言から自分を守る方法

グサリとくる一言から自分を守る方法

子供は自分で「自分を守る」為に、どんなことができるだろう。
甘えたり、頼ったり、助けて貰ったりという
基本的な守りを経験してこそ、
本質的な意味で、自分を守ることができる。
人間は自分の未知の経験を想像力で補うことができるとはいえ、
限度がある。ましてや、経験値の低い子供であれば尚更。
そして、辛い悲惨な体験を積んでいる子供であれば尚更。
自分がどのような状況にあるか把握できないまま育ち、
異常な状態を受け入れざるを得ない中で生育し、
なおかつ、正しく「自分を守る」ことなどできるかどうか。


「自分を守る」ことは至難の業だ。
いわゆるレトリック、修辞上「自分を守る」という表現は、
限りなく強く正しく見える。一見非の打ち所もない表現に見える。
守る為にはある程度の力も能力、技術も必要だから。


しかし、心理的・物理的に、物事には両面があって、
一方からと他方からでは価値も、物の見方も、現れ方も違う。
政治の社会で取り沙汰されるように、一方にとっての正義は、
他方にとっては悪とされる場合はごまんとある。
守ることは攻めることに繋がる。善意は悪意に、保護は過保護に。


親子・母子・きょうだい関係は癒着・共依存を起こしやすい。
真綿で首を絞めるように家族内家庭構造が入り組んで、お互いを縛る。
優しさという凶器・弱さという罠・泣き落としという懐柔で、
相手を刺し貫き、雁字搦めにし、自分の手の内へ陥れる。
支配されているように見える側が、実は支配しており、
支配しているように見えて、実は支配されていることはよくある。


子どもの健やかな成長や自立を願いながらも、
過去から現在に至るまでの、寂しさや孤独に耐えかねて、
「生きられなかった自分」の代わりに、嫉妬したり痛めつけたり
傀儡化することで、心の隙間を埋めているような親子関係は珍しくない。
子どもの為と言いながら、実は自分の為というのはよくある話。
自分の心の闇を誰かに肩代わりしてもらいたくて、
もっとも身近な人間を犠牲にして寄生することは、
おそらく生物としての本能なのだろう。


毒を食らわば皿まで、死なばもろとも、
親亀がこけたら皆こけた、のように積み木崩しが始まる。
自分を乗り越えていくこと、自分を犠牲にすることよりも、
一緒に駄目になってしまうことの方が楽だと、
やっぱり仕方がないのねと流されてしまう方が自然だと
思っている人も多いから。


何も知らなかった、気が付かなかった、わからなかったと
意識しないで生きている方がどれほど健全で楽か、
本能的に知っている人は、自ら病気になり、狂うことも厭わない。
相手の為、もしくは相手のせいという、「自分を守る」修辞で
相手を傷つけ、攻撃し、ずたずたにすることも厭わない。


もはや、そこでは言葉や物事の持つ両義性・両面性を越えて、
「自分を守る」ねじくれ曲がった自己愛の修辞としての
行動と思考が展開されるだけなのだ。
「自分を守る」正当性の元に、他者を組み敷く構図は是であり、
「弱い自分を守るのに必死である私」に、「意識化」を求めてくる、
他者の存在は、とてつもない悪でしかない。

母子臨床と世代間伝達

母子臨床と世代間伝達

苗である若木を、滋味溢れる土に植え替えるべきか、
少しでも周囲の枝葉をなぎ払って、
日光を浴びることができるようにするか、
どちらもできなければ、枯れてしまうかもできない
遅々として伸びつつある若木を、剪定も追肥もできずに
手をこまねいて見ていることしかできないのか、
現場に居る者はもどかしく思っている。


日陰の領域を出て、自分で日の光を浴びられるほどに延びた若木が、
どれほどの根を伸ばすことができるのか、
背丈だけ伸びて浅い根しか張れずに倒れるか、
思いのほか葉を茂らせて、太い幹を持つことができるか。
長丁場の作業でもって、成長を見守らなければならない。


唯一、見守るということ、側に居るという事が、
「自分を守る」という上辺の修辞に惑わされずに、
HELP(助けて)を言えるかどうかが、分かれ目になる。
第3者の存在を受け入れ、助けを求めることができる。
自分と相手だけの世界に固執し、埋没し、収束していくのではなく、
周囲に目を向けることができたその時点から、
回復・成長・自立への、長い長い道のりへの第一歩が始まる。


その先を見ることはできないかもしれない。
ただ、信じてその時その場に共に居る、それだけの為に。
その時間を捧げ、共に居る。
人は変わる、成長する、進化する、自分の望む方向に。
そのことだけを信じて。


「自分を守る」修辞に込められた、多様な世界を
一つ一つ確認することから、その人にとっての真実が何だったのか、
今、必要なことは何なのか、そしてこれからどうするのか、
考えるために。
私も、学び考える。私達も学び考える。
共に、歩む為に。

「現場からの治療論」という物語

「現場からの治療論」という物語