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Mastery for Service

大学祭に招かれて、改めて校歌の一節が気になって仕方がない。
「Mastery for Service(奉仕のための練達)」という言葉を、
皆さんはご存知だろうか?
C・J・L・ベーツによって提唱された
「Mastery for Service(奉仕のための練達)」
この言葉を口にする時、心に思う時、ある時は誇らしく、
ある時は重くのしかかってくるような、そんな気持ちにもさせられる。


大学を出てから、「滅私奉公」が当たり前という昼夜問わずの新人時代。
Mastery for Service は遠い理想の言葉として心の中に沈殿した。
辛く厳しい新人時代、学生時代の感傷など跡形もなく吹き飛ぶ日々。
そして、4半世紀たった今、改めて心に刻む、この校訓。

世間で耳にするような、似た様な言葉、
ノブレス・オブリージュ (noblesse oblige)とは、同じにして欲しくない。
それが、「自発的な無私の行動を促す明文化されない社会の心理、
基本的には、心理的な自負・自尊」という意味に解されればいいのだが、
単なる「財産、権力、社会的地位には責任が伴う」であったり、
ましてや「慇懃無礼或いは偽善的な社会的責任」であっては困るからだ。


この言葉も、元は、「すべて多く与えられた者は、多く求められ、
多く任された者は、更に多く要求される」
(「ルカによる福音書」12章48節)(新共同訳) に由来だそうだが。
とにかく、Mastery for Service、「自己修養(練達)と 献身(奉仕)」を
合わせ持つ生き方こそ人間の真の生き方という姿勢・考え方は、
社会に出てからひしひしとその重みを増した。

「生きる意味」を求めて (フランクル・コレクション)

「生きる意味」を求めて (フランクル・コレクション)

夜と霧 新版

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最近、世間を一時騒がせた「ホワイトカラー・エグゼンプション」等と
決して一緒にして欲しくはない。とんでもないことである。
「Mastery for Service(奉仕のための練達)」
この言葉が、自分自身にとってどれほど厳しいものであり、
またある意味、心の支えとなり得るものであるか、
真剣に仕事や生活に向き合わなくては、意識化することは難しい。


日々、流されるだけではいけないと、ふと思う日。
自分の言葉、行動に何の意味があるのか、問い直したくなる時、
今まで自分がしてきたことは何だったのかと、徒労感に打ちひしがれる時、
母校を離れて初めて、その一言の重々しくも輝かしい響きに心引かれる。
「Mastery for Service(奉仕のための練達)」


かくも、学びつつ働かねばならぬ日々。体力にも自信がなくなってきた今、
立場・役職がらみの義務感、責任感に苛まれて、
自己犠牲にだけ追い込まれるような感覚、
「所詮・・・」という形に収まりがちな虚しさ、
孤立感、徒労感、焦燥感に駆られながら、毎日が過ぎていく。
その狭間まで、心の中に初々しい三日月(クレセント)を見出す。

母校、新月祭。校章に刻まれたクレセント。校訓。
今、再び、我と我が身に何を呼びかけようというのか。
何を、意識せよというのか。
頭(こうべ)を垂れがちな、哀しき夕べの多い日暮れ時。
その空に、何を見出せというのか。


思いを形にすること難き日々。
心を行動に移すのに、斯くも辛きこと多き日々。
絶えず修養を積めと、甲山の麓から母校は静かに語る。
「Mastery for Service(奉仕のための練達)」
この、言葉が胸に深く染みる秋の日暮れ。

それでも人生にイエスと言う

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宿命を超えて、自己を超えて

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