Festina Lente2

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モザイクの思考

地の先へ。知の奥へ。(誰が考えたんだか、このキャッチフレーズ)
みんぱく30th 開館30周年記念講演・対談
「モザイクの思考―多様性を求めて」を聞きに行きました。
と言っても、葉書で応募の期間が過ぎていたので、当日参加。
講演は養老孟司。対談者、松園万亀雄。
司会はNHKアナウンサー、坪倉義彦。


いやあ、結構な人出でございました。家族優先の休日で、
15時以降別行動。家人と娘は某メーカー主催のお料理教室。
ビーフストロガノフ、ホワイトシチュー掛け鱈と野菜の二品に舌鼓。
私、狐に騙されたような感覚で、不覚にもというか、当然というか、
睡魔と闘いながら、講演を聴いていた不埒者。


話の内容、所々のキーワードと例示に関しては、
ああそう、と思えるけれど如何せん、専門外の内容で、
おまけに本を読むのと違って講演なので、話し方の「癖」でいうと、
聞き取り易い方ではなかったですね、養老氏。
これならもう少し堅めに「講義調」でしゃべって貰った方が、
わかりやすかったかもしれない。却って、わかり易くと思ったのか、
公演時間の短さに上手くまとめ切れなかったのか、
小さな笑いは取っていたけれど、今一つ? 
ま、それも私の聞き取り能力の至らなさということで、ご勘弁。


私的な居眠りの穴だらけの講義メモより(講演及び対談)


多様性を維持するためにはモザイク的である事が必要。
この思考は日本的思考。今西錦司氏の「すみわけ理論」、
かの有名な生態学への影響大の「今西進化論」を例示して説明。
「すみわけ」の顕著な例は、に本の自然を見ればわかる。
飛行機から見た日本の景色。ヨーロッパのものとは異なる景色。
日本は「すみわけ」ることで確執を排除し和を保とうとするが、
西洋は「適応」できるかできないかで、断固とした排除・識別を行う。


ニューヨークは人種の坩堝ではない。坩堝であれば均一化を目指して、
「合金」として溶け合う事が原則。
実際は、「すみわけ」であり、強制的に何かを均一にしてしまうように
表面上は見えていても、言語・食習慣・生活様式はそうではない。
ただ、アメリカナイズされるという感覚は、均一化のイメージを持つ。


絶対音感について。人間は幼少時しか絶対音感を持てない。
余程の訓練が無ければ、絶対音感を維持し続ける事ができない。
何故ならば、厳然として違うものを「同じ」として受け取るのは、
意識化(識別)する能力を捨てていく事に他ならないから。
感覚的な違いを識別する能力は動物特有のものであり、
人間はそれを失うことで進化してきているともいえる。

感覚が受け止める、例えば色・匂い・音の響きや高低などの違いを
様々な多様性として受容するのではなく、「色・匂い・音」という
一言に集約し「同じもの」として括る言語能力こそが人間の能力。
これは、動物は持ち得ない。
様々な存在が持つ多様性を受け止める感性、感受性を失うことによって、
言葉を獲得して成長する人間は、当然絶対音感を失う。


感覚で捉えればどの花も「世界に一つだけの花」であるはずなのに、
わざわざ「世界に一つだけの花」と表現しなければならないのは、
如何に言語によって同じものに括られた世界に住んでいるかを示す。
「同じ」という概念に縛られているのは、人間の大きな特徴。
動物には、「同じ」などあり得ない。


もっとも最たるもの。「同じ、つまりイコール、=」等価であるということ。
交換可能であるということ。この認識は動物は持てない。
文化人類学において人間の文化の始まりは、交換の能力というならば、
それはお金の使用である。多い・少ない・ある・ない・ではなく、
=(イコール)の世界で、全く異なるものを交換可能にしている事。

      

絶対音感のある人の感性を調べて見たい。共感覚の研究。
アルファベットに色が付く。8割の人が同じ字に対し同じ色を認識。
異なる色を見る者は、村八分状態になる。
共感覚」という特殊な能力の世界にあっても、
「同じ」である事が認められ。「異なる」事が排除される。


グローバルな社会、グローバリズムという言葉が一時期もてはやされた。
しかし、地方色を失って都会と同じになるということはどういうことか。
企画化され、均質均一化されるという事が何を引き起こしているのか、
我々は気付いているだろうか?
過剰な開発による変化のスピードが、我々にどのような影響を与えているか。


みんぱくには金目、重要文化財ではない普通の生活用品を集めたのに、
30年経った現在では手に入らないので、貴重なものになった。
変化のスピードの速さは、天気のように研究室にいたのではわからない。
蒐集する、集めるという事はできる限り多くのものに目を通すこと。
そのうちに、その中から見えてくるものわかってくるものがある。
数をこなす中で把握できる、見出せるものの存在。
例示。バーナード・ショー鑑識眼の養い方―
数、期間。ずっと見ていると力が付く。
30年経ったからこそ、価値が見えてくるものが沢山ある。


外国ではキュレーターの活動までガラス張りにして見せているところもある。
(それはそれでやりすぎだが)博物館は生きて活動しているということを
みんなに知ってもらう努力は必要。
博物館はどういう存在であるべきか。
感覚を磨くのが大変な時代。
環境に適応している事柄・生物が人間の文化・社会に影響を与えるのか、
適応以前に影響を与えているものが存在するのか。
感性は自分で磨かなくてはならない。
「つまらない」と思っているのは、自分が鈍いということ。


文化人類学は今生きている人の研究だが、20世紀後半から変化が著しく、
博物館での展示そのものが困難。
民族的な特徴を、今使用しているものを通して表現できない。
モノの流通の拡大でどの地域でも同じものを使用したりしている。
現地生産でないものが増えてきた。
結局、モノの展示ではなく生活の仕方そのものを「映像」で記録し、
残して展示していく方法が取られる事になるだろう。
「映像」の果たす役割は、これからもっと大きくなるだろう。


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ざっとこんな感じの内容だったでしょうか。
養老氏の自分のホームグラウンドで語る、わかるようなわからないような
あいまいな展開に煙に巻かれたような印象。何となく・・・
言いたい事の輪郭が、うっすら見えたような感じとでも言いましょうか。
対談と言うより、あれは司会のアナウンサーの努力の賜物で
話題が行ったり来たりできたという感じで、
とても話のキャッチボールには見えず、はらはらしながら聞いていたような。


まあ、私が切実に感じているのは、映像展示が増えたせいで、
博物館を見て回るのが大変で(体力勝負だよ)、小さな特別展でも
かなりの時間を要するから、本気で見ようと思ったら半日仕事。
そんな余裕のある見方を要求されても辛い。
貴重な映像を何分間も見る展示を、何箇所も盛り込まれても無理。
その辺の工夫が欲しい。
映像重視ならば、クリックして外部から見られるようにしておいて欲しい。
現物は、色んな角度から見るし現地へ出向くのもわかるけれど、
映像はね、座って、時間のある時に、(余裕を持って)
関連事項を見られるシステムの方がありがたい。
もしくはそういう場所の確保をして欲しい。そう思いました。


博物館や美術館見学は、知的好奇心を支える心の体力だけでなく、
実際の「体力勝負」だという事を、不惑を越えてひしひし実感。
各々がた、スポーツだけが体力を要するのではありません。
赤い筋肉白い筋肉ではありませんが、脳細胞に必要な「筋肉」は、
全身に必要なものです。
でないと、知的体力を支えきれないというのが、私の実感。
モザイク思考以前の事かもしれませんが。


では、本日はこれにて。

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