Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

自問自答の夜

再び炬燵猫の季節がやって来た。ここで仕事をすると、
何だか炬燵だけが自分の世界になったような感じ。
電脳玉手箱を抱えて過ごすひととき、そして朝を迎え。
このくり返しの季節が到来。


駅に向かう朝。いまだ公孫樹は散り果てることなく、
師走の声を聞いたというのに、晩秋の並木道の風情。
15分も歩けば汗ばむアップダウンのきつい道のり。
スルットkansaiの3日間フリー切符を買って、研修先へ。
いつも夜集まるけれど、本日は丸一日。

           

わかりやすく鋭いスーパーザイザーの説明と眼差しに、
自分が試されているのか、不安になる。
周囲から出る色んな意見や質問は、体験済みのものもあり、
そうなのか? と、なぞらなければならないものもあり、
質問は無いのかと促されると、何か質問しなければ
ならないのかと不安になる私。


質問、訊いてどうなるものでもないと思っている訳ではない。
「頭痛が痛い」のと同様に、「何処がわかないか、わからない」
「何が言いたいのか、うまく言えない」昼行灯状態の私なので、
頭の中から引きずり出す言葉が見つからない。
実際話せば形になるのかもしれないが、
自分で解決すべき問題でしょうと言われてしまう気がすると、
言葉に出せない部分、抵抗が大きい。


それでは勉強にならないではないか、と何処かで囁く声がする。
複数の自分が、頭の中でせめぎあっているような気分にもなる。
今更訊いてどうなるのだという、諦めにも似たものが、
腑に落ちる落ちないで左右されるものではないという、
やるせない「自分の思い」のふてぶてしいまでの存在。
そういう思いを意識していては、尋ねることすらできない。
尋ねる資格さえ無いだろうと感じてしまう。
そんな私なのだ。

パーソンセンタード・エンカウンターグループ

パーソンセンタード・エンカウンターグループ

10年以上も前から、この手の研修・勉強会は鬼門だ。
しかし、自分で選んでいる限りは自己責任。
今回耐えられたのは、一つの研修グループの人数が少ないためであり、
おそらく多ければ、持ちこたえたかどうかはわからない。
話の流れが何処へ向かうのかわからない、
初対面の人間が、手探りで話の糸口を見つけ、
話題を紡ぎ、聞き取りながら織り方を編み出すような作業。


空気を読み、場を読み、人を動かし、相手に与える影響を
想定しながら発言するのかしないのか、
だんまりを決め込むのか、その意思表示が全て。
目に見える世界とノンバーバルなものとの表裏一体、
参加するのかしないのか、介入が必要なのかどうなのか、
それが全て。その緊張感が学びにつながるのだろうけれど、
私にとってはもっとも苦手な分野の一つ。


輪の中に入る。和を以って尊しと為す?
私にとっては難しい。
小波のように押し寄せてくる感情を、味わったり
吟味したりする暇も無く、展開される場から取り残される。
置き去りにされる。付いていけないので、もたもたする。
感じていることから、執着したことから離れられない。


提供される話題やテーマが、自分の中に無い時に、
どうやって船を出せば良いのかわからない。
いつも、好意的な受身でいられない。
ニュートラルに入れていたギアが、
ポルターガイスト現象に翻弄されるように、
勝手にチェンジされるような、そんな感じ。
この手の研修・勉強会では私の中に起こる、
そういう感覚に付いていくのが大変。


共感ばかり持ち続けるのは難しい。だからこその訓練。
一度に複数の意見を受け入れるのは難しい。
だからこそ見極めが必要。
無数の縦横の場の空気の目、綻び、そういうものを
見て見ない振りもできず、気になってしまう私。
そこから漏れ落ちるもの、支えきれないもの、
滴り落ちるナマの感情を、抑えきれずに苦しくなる。

構成的グループ・エンカウンターの原理と進め方―リーダーのためのガイド

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スーパーザイザーの説明で頭の中に響いた言葉。
「最後まで、我慢している人は意地悪。
 小出しにすれば爆発せずに済むのに、
 我慢することで、他の人に同じ忍耐を強いて、
 我慢しない人を批判する」
うーん・・・、何だかね。


もう一つ。
「人を傷つけるのは、個人情報じゃない。
 個人の感情」
確かにねえ・・・。


今週私の頭の中でずっと響いている、「ちりとてちん」の台詞。
「どうしてあなたがここにいるの?
 落語なんかに興味ないくせに、どうして落語聞いているの?
 ここは私がやっと見つけた私の居場所なのに・・・、
 やっと見つけた私の居場所に、出てこないでよ。」
こんな内容のことをカーラジオで聞いた。


今週の脳内メッセージエンドレステープ「私の居場所」
自分の居場所を様々な場所で確保するのに大変な時、
確保するまでに時間を強いられている時、
自分の不器用さを嘆くべきなのだろうけれど、
ついてない、認めてもらえない、やってもできない、
何重にも膨れ上がったコンプレックスは、
ケロイドのように心を覆っているので、
自分を醜いと思っている感覚から、離れるのは難しい。


自分探しの罠や、自分探しの難しさはそこにある。
心の贅肉ならばデトックスダイエットもできようが、
心のケロイドは、傷口なのできれいに取り除くということが難しい。
その傷口と共に生活していく、生きていくことを
受容するしかないのだから。


グループ活動には様々な種類がある。
その違いをきちんと理解・把握した上で展開する活動は
どれくらいあるだろう? 自分がきちんとできるだろうか?
そんな思いで疲れ果てて、夜、駅から再び歩く。
アップダウンのきつい道は、毎日の生活そのもの。
街路樹の銀杏並木は、いまだ散らず。
闇夜に浮かび上がる灯心の如く、黄金の木の葉輝く。


私は一人歩く。

パーソン・センタード・セラピー―フォーカシング指向の観点から

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構成的グループエンカウンター研究―SGEが個人の成長におよぼす影響

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