Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

P.S. I LOVE YOU

娘を家人に託し勉強会へ急ぐ。のんびりランチを取ったせいか、
電車に乗り遅れ、5分遅刻。自分のケース発表だというのに。
それに、自分自身がスーパーバイズを受けていても、
自分が抱えている課題を乗り越えられるかどうかは別問題だ。
この会に参加するまでは、実はそれほどの覚悟なくやって来たが、
海千山千の中の見知らぬ人の中で発表するとなると、
やはり、それなりに緊張感があるものだ。


別にご高察もご指導賜りも、言葉の上の綾でしかない。
要は何ができていて、何ができていないかはっきりさせられるかどうか、
物事の到達点をどこに設定するか、その見極めさえできればいい。
自分が駆け出しで、きちんと相手を受け止めきれていない。
それは誰のせいでもなくて、自分の中の苛立ちのせい。
よくわかっている。
自分の受容経験の少なさが、相手への嫌悪や厳しさに繋がる事も。
相手にとって必要なことができないもの、
自分がされるのが嫌なことの裏返しだから。
重々わかっていながら、お立ち台に上らされる気分。
ケース検討とはいえ、値踏みされている気分。
中途半端な自分を。


質問できないのは、自分が物事をきちんと把握できていないから。
質問にためらいがあるのは、質問されるのが嫌いだから。
自分から話すのは平気だが、尋ねられたことに焦点を当てるのは、
また別問題だからだ。この弱さ・脆さが、世渡りの下手さ加減が、
融通を利かすことのできない頭の固さが、自分を縛る。
人と交わることが苦手な人間の、経験不足を露呈させる部分。
如才なさ、しなやかさ、気配り、そういうものから縁遠い。
見つめたくない自分を目の当たりにすることになる、
振り返り、洞察、吟味。


何事にも鍛錬、吟味、修練というけれど、
そんなに簡単に物事は運ばない。
体を動かす技に型が必要なように、
心を扱う技にも、それなりの型が必要だ。
それは自分自身のことであっても、相手のことであっても。
その距離感を安全防護策と見るか、乖離と見るか、
高みの見物とするか、必要不可欠の当然の帰結とするか。


疲れて家族と合流すると、いつものお約束、お供。
映画館の中のおやつ(食事)を買いそびれているという。
何てこったい。という訳で空腹のまま、家族映画館の時間。
本日は話題作、P.S. I LOVE YOU の初日なのだが・・・。

喪失体験とトラウマ―喪失心理学入門

喪失体験とトラウマ―喪失心理学入門

喪失と悲嘆の心理療法―構成主義からみた意味の探究

喪失と悲嘆の心理療法―構成主義からみた意味の探究

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まず映画が長すぎた。中だるみ。娘にとっても長いだけでなく、
私達大人でも、ちょっと見辛い飽き飽きする場面が多い。
編集の問題か、物語の展開のスローテンポさが問題か、
心理描写と俳優の演技が噛み合っていない、違和感。
亡くなった人間との会話の部分は許せても、
オスカー女優を使った意味が無いのでは? と思えるほど、
演出に「切れ」が無い。脚本が悪いのか? 


『ミリオンダラー・ベィビー』で熱演。
クリント・イーストウッドとタメを張ったヒラリー・スワンクは、
年齢相応の役柄だったのかもしれないが、その個性的な持ち味を
お涙頂戴の恋愛ドラマでは活かし切れていなかった。
縁起は悪くない。美人ではないのに可愛らしく見える。
それはそれで悪くない。年上の夫の手に甘えるのも悪くない。
それでも、違和感がある。


オペラ座の怪人』『300』で、その個性を発揮した相手役もそう。
今までの作品の印象を拭い去ろうとしたのか、実際の自分に近い役と
語っていたが、俳優が等身大の自分なんか出してどうする?
全く違う人間を演じるから魅力的に見えるのに。
ジェラルド・バトラーも芸達者なのだが、何しろ幽霊ならぬ、
追憶の中の人間を演じるわけで、必要以上に生々しいのも困る役。


古典『土佐日記』ではないが、「死んだ子はかわいい」のが鉄則。
結婚にまつわる有名な世間の諺を思い出させる。
「生きあと嫁(ゆ)くとも 死にあと嫁(ゆ)くな」
要は死んでしまった人の思い出に勝つものなど、ありはしない。
永遠に神聖にして犯すべからざるもの。
誰にも奪えないその思い出を、その本人が残された相手を思い、
愛しているよと言いながら、忘れてもいいんだよ、
次の恋に走ってもいいんだよとメッセージを送ってもね。


相手に幸せになって欲しいからこそ、そう願うのかもしれないけれど、
死んだ人間にとって忘れ去られることは、2度目の死、
永遠の死を意味することになりかねない。
その部分でこの計画の切なさよりも、矛盾に付いて行けない。
相手への思いやりに満ちたメッセージや旅行の企画。
それは、実は主人公の母親の助けによって遂行されていくのだが、
そこに全面的に表現されるべきなのは、
悲嘆にくれる娘への援助を惜しまない母親の愛。


かつて夫に捨てられ一人で生きてきたからこそ、
「死に別れ」で孤独に淵に立たされている
危機的な状況の娘を助けるためなら何をするのも厭わない、
結婚に反対した意に沿わぬ相手を許し計画に乗る形で、
全面的に娘を支える母親の姿を、
もっとクローズアップしてもよかったのではないかと思う。
ミザリー』おばさん、キャシー・ベイツのいぶし銀的演技こそ、
常に子供世代に対して送られるメッセージ、
P.S. I LOVE YOU ではないかとさえ思えたのだが。


出会いから別れまでを辿って蛇が尻尾を飲み込むように、
完結させたかったのかもしれないが、失敗しているだろう。
寡婦となった主人公の名前、「ホリー」も皮肉で嫌だった。
何となれば、「祝福、めでたい」連想させ、
映画の中では上滑りで軽い響きに聞こえてしまった。
主人公としても、何とも「軽い」仕上がりで・・・。
悲劇の中にも「神様のお守り」があると言わんばかりの。


そして女の友情や、いきずりの恋、新しい恋の予感を散りばめ、
観客に期待を抱かせながら、「兄と妹のキス」だったり、
再びアイルランドへの旅で「いきずり」ぱーと2?
もしかしたら本命? みたいな引きずり方が、
映画の終わり方としては見苦しくて、ダサダサだった。
ああいうラストシーンにするならば、
母親との関係をもっときっちり描くべきだったろう。


一番リアルに描写されていたのは、打算的な条件で恋愛をしようとする女友達。
その女友達の結婚と妊娠に、心から嫉妬し動揺するシーン。
子供を授かることなく夫と死に別れた自分の存在とは、
結婚生活とは何だったのか、振り返る場面。
その肝心の場面も、いきずりの出会いに強引に持っていかれ、
嫌なことは体で発散! みたいな安易さが前面に出されて台無しだった。
それをロマンスと言うべきか、癒しと呼ぶべきか、
単なる逃避と決めつけるか、許容範囲内の逸脱とみなすべきか、
観客の手に委ねられているのだろうが。


安易なメロドラマの手法、心と体の温もりを求める場面。
この演出で人の弱さや優しさを出したかったのかもしれないが、
何だか逆効果だったように思えてならない。
旅の恥はかき捨て的な、自分探しと癒しを求めて羽目を外す、
そんじょそこらによくありがちな、「若者の旅行」のような仕上がり。
そんなふうに感じてしまう自分は、冷たいのだろうか。
そういう相手への距離感が、ケーススタディにも出てしまうのだろうか。


愛する人を喪失することが、どのような視点で描かれているか。
ちょっと期待して観た私が馬鹿だったと感じたのだが、
他の人は違う受け止め方をするのかもしれない。
今日のネタばれは、昨日に引き続き突き放し過ぎかも。
でも、二つのアメリカ映画は情緒的ではなく即物的な側面が強すぎた。
少なくとも、私にとってはそう感じた。
秋の「かそけき香り」とは遥かにかけ離れている。
そんな感じがした。

オリジナル・サウンドトラック P.S.アイラヴユー

オリジナル・サウンドトラック P.S.アイラヴユー

PS, I Love You Movie Tie-In Edition

PS, I Love You Movie Tie-In Edition