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カッコーの巣の上で

本日のBSはミロス・フォアマンの名作、『カッコーの巣の上で
高校時代友人達が100円ずつ出し合って、誕生日プレゼントのチケット。
皆で見に行った学校帰り。今思えば、おませな私達。
もっとラブロマンスを見ても良かったはずなのに、
どうしてどうして学校帰りに、こんなシリアスな映画を。
友人達と何を話したか、全然覚えていない。
映画を見に行く前にアイスクリームを舐めたかもしれない。
その程度。映画だけが衝撃的で忘れられない。
ジャック・ニコルソン。彼の演技、忘れられない。
ネイティブアメリカンのチーフ、ラストシーン、忘れられない。


ロボトミー手術を施され、生ける屍になった主人公を殺し、
渾身の力を振り絞って水道を壊して、窓を破って去っていく。
精神病院から脱出し、チーフが走り去ってゆく姿。
その先に何があるのか、希望なのか、自由なのか。
高校生の私は、おぼろげな未来に、
不幸な幸せ、結末のような始まりに戸惑いながら、
映画の世界を彷徨った。
あれから何年、何十年経っただろう。


同級生はのデートで『風と共に去りぬ』を見に行ったというのに、
私達は、デートをする相手も無く、この映画を見たのは、
何年生の時だった? 私の誕生日だから春・・・。
その映画館とてシネコンの波に押されて今は無く、
私達は卒業後ウン十年記念の同窓会を去年行い、
記念DVDを申し込んだものの、見る気さえしない。
そんな私を追いかけてくる、高校時代の思い出。


受験校だと言われていたけれど、学校生活の中で唯一楽しかった。
ユニークな友人達、先輩、後輩、部活、奇人変人常識人の先生方。
あんなに濃いキャラでいいのかと思うくらい、人材溢れる世界。
音楽、体育祭、応援合戦、文化祭のミュージカル、8ミリ映画、
必修クラブ、模擬テスト、ハレルヤコーラス、マラソン
シャンデリアのぶら下がる講堂、閉架書庫のある図書館、
桜の木の下でランチ、昼休みのバスケットの試合。


思い出の中で光り輝いている、恋愛模様、放課後の雑談。
苦手な数学、ラテン語の生物、修道院のような窓の校舎。
思い出と交錯する、映画の中の世界。
ジャック・ニコルソン演じる主人公マクマーフィが、
精神病院を脱出するつもりで呼び寄せた娼婦たちが、
病院の中を見て呟く。「昔の高校みたい」
その映画を見た高校時代の私。
その昔の私を、私を取り巻いていた諸々を思い出している、
今の私。その今の私を持て余している。

カッコーの巣の上で

カッコーの巣の上で

カッコーの巣の上で [DVD]

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自由になりたくてもなれない自分を、鬱屈した自分。
主人公のように振舞うことなどできるはずも無い自分。
荒々しく傍若無人で、欲望に忠実なエネルギーに憧れていた自分。
自分はマクマーフィかチーフの側に立っていると思っていたのに、
今日久しぶりに映画を観てみれば、看護師長のミス・ラチェッドに、
自分が見たくない自分を沢山見出したのだった。


自分の仕事に対する熱意も専門意識も、強い責任感や実行力も、
一つ裏返せば「いつも勝とうとする」安全圏、聖域に籠もろうとする、
そんな自分ではないのか、仕事を遂行する裏側には、
権力を掌握する快さが隠れていないか?
例えば母親の立場で子供の上に君臨する、
「取り仕切る人間」のルールと日常を優先させていないか?
そんな不安さえ芽生えてくる。
心の奥底に眠っているはずの、後ろめたさや、
自信の無さ、ルーティンにのっとった無意味な安心感、
これさえ守っておけば大丈夫だろうといった・・・。


親子関係だけではなくて、仕事でもそう。
支配、管理、維持、上から目線の変更不可の、
「神聖な領域」「理解という名の下での把握」
「未知なる物への無理解・締め出し」が行われていないか。
看護師長の一見穏やかでにこやかな佇まい、
毅然としてしっかりした言動の向こうに
相手を追い詰めることに長けている底意地の悪さ、
ダブルバインドで君臨する母親の姿、
負の側面が肥大したグレーとマザーの姿を見た。


この映画を見た頃は心理学の「し」も知らない高校生の頃。
カッコーの巣の上で』の上映権云々で舞台も見たが、
看護師長の細かな表情、目、物言わぬ迫力に関しては、
映画の面目躍如といったアップに耐える演技力と撮影だ。
そして、その看護師長の偽善に満ちた態度に、
面と向かって反抗する主人公マクマーフィ。
若々しいジャック・ニコルソンの迫力が嬉しい。
(小説の主人公は語り手となるチーフだ)
アカデミー賞、主演男優賞・主演女優賞・脚本賞・監督賞・作品賞だけのことはある。
(映画については詳細はこちら→


この映画を見た当時の衝撃は、ずっと自分の中にある。
仕事の場面で忸怩とした思いに駆られる時、
何が矜持、何が責任? 振り返らざるを得ない心痛む思い、
やり切れないこと、結果が見出せない焦燥、落胆、
数え切れないほどの砂を噛むような思いの繰り返し、
その狭間、只中にあって、何が正しいのか間違っているのか、
信念や価値観が揺らぎそうになる時、
私はどちらの側に立つべきなのだろうと、思い惑う時。


私は私の巣を守れているか、それがまっとうな方法で。
私は私の巣を暖めているか。
私は私の巣を倦むことなく作り続けているのか。
私は私の巣を営む事が出来ているのか。
私は私自身を、ただの管理者、形ばかりの遂行者にしていないか。


高校時代にはどちらの側にいるのか、など思い悩まなかった。
今は違う。どちらの側にも両足? 片足?
単純に割り切ることができない、仕事内容如何によっては?
本当に? では家の中では?
映画のラストシーンのように、逃げ出してしまいたくなるのは、
自由を求めて走り出して行きたいのは、
聞こえずしゃべれず我一向に関せずでやりおおしたくなるのは、
自分自身ではないのか?
まだ、逃げ続けているだけではないのか?


創り続けているのか、本当に創り続けているのか?
高校時代の私が、今の私に呼びかける。
昔の私が、何も知らなかった頃の私が問いかけてくる。

One Flew Over the Cuckoo's Nest (Unknown)

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