Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

学ぶ曲がり角

娘を3時間ほど1人で遊ばせている間、少し学びのお手伝い。
「人のふり見て我がふり直せ」とはよく言ったもので、
1年経って立場が入れ替わってみると、
私から冷静に見えるものも、当事者になってみれば、
緊張の余り何をしているのかわからないという人もいれば、
今までどおりの事をすればいいのだしと落ち着いた人も。
学んで来た事を試す実戦の場と言えばいいのだろうが、
様々なものには残念ながら相性のようなものもあれば、
運や巡り合わせとしか言いようの無いものもあり、
何がどう展開するかわからない。


様々な人と接してみると、本当に人の話を聴く態度や
相槌の打ち方、タイミング、視線、姿勢、
こうも一人一人違うものなのだろうかと改めて驚かされる。
自分自身は普段どうなのだろうか、
どんなふうにしているのだろうかと赤面してしまう。
あれもこれも仕事が重なってきている今、
何か一つにだけ集中して力を注ぐということは出来ず、
物事に対する散漫な印象だけが日に日に強くなる。


嗅覚障害に一時的に陥ったものの、服薬で戻ってきた匂い、香り。
皮肉な事に様々な匂いや香りが自分を取り巻くようになると、
その感じ方が以前と全く同じなのかどうか、自信がもてない。
戻ってきた匂いの殆どは馴染みがあるものなのに、
こんなに微かだっただろうかとか、
こんなに強いものだっただろうかとあやふやな印象。
おまけに色んな匂いや香りが混ざって感じられる場所、
人込みや駅、商店街、雑踏で眩暈や吐き気を感じる。
匂いや香りの強さに圧倒されて気分が悪くなってしまう。


感じるという事、感じ取れるという事はいいことばかりではない。
深読みしようと思っているわけではないのに、考え過ぎ、
気にし過ぎで自分自身が参ってしまうまで考える。
思い切って行動する事も出来なければ、
気にせず何事も無かったように振舞って、進む事も出来ない。
感じることと考えることのバランス、
感じることと感じないことのバランスが、上手く釣り合わない。

からだは嘘をつかない―うつ・不安・失感情、“からだ”からのアプローチ

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モラル・インテリジェンス―カオス社会を生きぬく第三の能力

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リフレクション―社会学的な感受性へ

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春休み中の娘とゆっくり過ごしたい。
勉強や習い事など、どうでもいいと言ってやりたい。
積み重ねが大事なのはわかっている。
詰め込みが聴く時期は限られていて、
機械的に量を重ねる訓練が有効である事も、
闇雲に覚えなければならない事も、わかっている。
なのに、そんな風にさせたくないという親のエゴ。


春休み中の娘とのんびり過ごしたい。
でも親に春休みなど無いし、子供は子供で1人でのんびり、
友達とのんびりしたいだろう。親の気持ちとは離れたところで、
自分自身を見つめる時間、一人に浸る時間が必要だろう。
わかっていながら、乳幼児期のようにべったり過ごす時間が少なく
心寂しい気持ちにならざるを得ない。


見る位置を少しずらしてみれば、
休みを取って一日街中に出てみれば、
通勤、出退勤の時間帯以外に会う人の年齢層が高い。
スーパーの前で腰掛け陽だまりで話をする人々、
神社仏閣で桜を愛でている人、
通院している時と変わらないくらい、
つまり病院にいるときと変わらないくらい、
見かける人々の年齢層が高い。


今日立場を変え接した人も、自分より若い人がいただろうか。
学ぶ立場にある人が、若い人ばかりという訳ではない。
学ぶという姿勢を持つ人が若い訳ではない。
おかしな言い方だが残された時間が短いからこそ、
自分に残されている時間の短さを意識するからこそ、
学ぶ姿勢にも真剣さが現れてくるのかもしれない。
自分自身に何かを有効に残したい、役立てたい。
自分自身を何かに有効に使いたい、役に立ちたいと。


昔見慣れた書物の背表紙の合間に、気付かなかった本を見つける。
それは昔目に入らなかったものが、今は嫌でも目に入り、
いちいち気にせざるを得ないようになって来たから。
以前は気にも留めなかった事を、
現実として受け入れるようになって来たから。
受け入れざるを得なくなってきたから。


若い頃のように病気や怪我の後遺症を単純な体のリハビリで、
ある意味、力技でねじ伏せるようにして日常生活を送ってきても、
歯が弱り、目の焦点を合わせる時間が遅れて視界が霞みぼやけ、
老眼鏡の世話になりながら字を読み、
今まで感じなかった地に沈み込むような疲労を感じ、
手や足のこわばりにぎょっとする朝。


心柔らかで伸びやかな肢体を持つ若い娘と過ごす、
この春は切ないほどに愛しい限りある時間なのに、
共に過ごせる時間は少ない。思いの外、少ない。
公園に娘を迎えに行けば、若い本当に若い親子が集い、
世界中が若い人々で溢れているように錯覚してしまう。
でもよくよく見てみれば、私と余り変わらない年齢で
孫を遊ばせている人も多い。逆に孤独に過ごしている人も。


連れもって歩くも一人で過ごすも、それぞれなのに、
春は空気の色が違うせいか、桜に紛れて気付かない。
広い公園の遊具で遊ぶ子供の喧騒の中、
無言の呟きを聴くように、切なく感じる夕暮れ。
仕事を終えて娘を遊ばせる夕方の風にすっかり体は冷え、
遊び回る娘は「暑い」と上着を脱いでまた走り去っていく。
心も体もこんな風に温度差がある。
そして、その温度差に暖められる必要がある毎日。
人のふり見て学びの角度が変わっていく日々。

歳月

歳月