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『そうかもしれない』

『そうかもしれない』にショックを受ける。
何の予備知識も無く観た本日のBS深夜映画。
後で調べたら、話題作、結構有名な邦画だったよう。
2006年の公開当時、家人の入退院の余韻が醒めやらぬ頃、
ブログを始めて心の整理を付け始めた頃、
邦画をあまり見ない私のアンテナには引っかからなかったのだろう。
それとも無意識に排除していたか。


―― 詩人・小説家の耕治人が妻ヨシさんとの晩年の日々を綴った<命終三部作>
(『天井から降る哀しい音』『どんなご縁で』『そうかもしれない』)を 映画化した
ヒューマン・ドラマ。 長く連れ添ってきた妻がある日突然認知症となり、
穏やかな日常が一変してしまう中で、 それでもすべてを受け入れ
妻を優しく見守り続ける夫――
主演は雪村いづみ上方落語界の重鎮、三代目桂春團治
彼は長い芸能生活の中で映画初主演だったそうな。
参考→http://jjpooljj.hp.infoseek.co.jp/hosaka/hosaka.html


雪村いずみの演技はふんわりとしているだけに、不気味なリアリティがあった。
桂春團治の演技は恬淡とした枯れた温かさが心地よかった。
ある意味、これから老いて行こうとする人間にとっては、一つの理想、
一つのモデル、憧れ、模範のようなものさえ感じられる夫婦の在り方。
願わくはこのように安らかな時間を持ち、毅然としてこの世に別れを告げたい、
或いは呆けてこの世の最後の恐怖や悲しみから幾分か逃れる形で、
神仏の情けの元に死を迎えたい。
全ての人間が、PPK(ぴんぴんころり)とは行かない世の中。
はっきりと清明な意識を保ったまま、思うに任せぬ自分を受け入れるのは辛い。


目も耳も体もその感覚さえも鈍り、失われていく。
自分がかつての自分でなくなるのを感じながら受け入れていくのは、苦しい作業だ。
母を見る度に、健康には気をつけろだの、食生活に注意しろと口やかましかった人間が
最も早くに磨り減ってしまったのではないかと思わざるを得ない。
だから、呆けてしまったのではないかと。


「死に水を取ってもらう」という言い方があるが、
今の時代、肉親のみが世話をするのに側に付くのは難しいかも。
生きている人間は経済的な余裕が無い限り、日常生活を働いて過ごす。
側に居続ける「子供」「パートナー」であり続けるのは難しい。
主人公達も自分達だけの生活は立ち行かなくなる。・・・介護の限界。
老いて呆けた妻は、夫の事もわからなくなる。
「どんなご縁で」世話をしてもらっているのかわからないくらいに。


病に冒され夫婦二人の生活はこれ以上無理と判断した夫によって、終止符。
妻はホームへ、夫は翌日入院、手術を経て、小康を得るも余命幾許も無い。
口腔がんを患う夫は明晰な意識を保ったまま、死への恐怖と共に、
老妻を残して先に逝かなければならない様々な思いに揺れる。
しかし、神の計らいか情けか、死の恐怖も悲しみもわからず呆けている妻。
面会に際し、夫との別れが迫っている事もわからない。

愛し合い、信頼しあっていても、いがみ合うことなく苦しむことなく
その縁(えにし)が尽きるまで連添っていられれば幸せだが、
現実はそんなに甘くは無く、世知辛い。やりくりはもっと厳しい。
映画の中にはホームの費用も、入院費用もお金のことが余り出てこない。
小説家の夫が最後の仕事を仕上げる姿が端正なだけに、
呆けてもなお「お仕事して下さい」と夫を支えていた老妻が哀れ。


そして、夫の死後の後日談。
庭のエニシダ若木に、苗木を植えた在りし日の夫の姿を思い出し、
一瞬正気に返って涙する妻。このラストシーンも胸にこたえた。
黄色い花を沢山つける春から初夏のエニシダは、黄金の思い出。
両親と過ごした幼少期の社宅の庭にあった、金エニシダの木。
今は老いた二人も未来を見つめ子育てをしていた30代があったのだと、
映画の中に両親を重ね合わせてしまい、どうしようもなく心乱れる。


映画『そうかもしれない』には、子供も無く孫もいない。
夫婦二人だけの世界が静かに美しく哀しく崩壊していく。
それは、確かに映画の世界の美学上の演出と言えなくも無い。
原作を知らないから何とも言えないが、現実はこんなに美しくない。
こんな哀切を画面の中に切り取るような、静謐の中で日々は収束しない。
もっと生々しく、怒りと嘆きに満ちてすったもんだしながらの生活。
映画の奥深い美しさ、静かなまなざしを理解することが出来ても、
理解と共感を示す事はできても、自分とは遥かに距離がある、
似て非なる現実を抱えて、突き放してしまう自分がいる。


主役二人の鬼気迫る演技や、やり取り、周囲の狼狽、
妻を介護しつつ、仕事に打ち込む老作家のやるせない思いと情熱、
呆けていく過程で少しずつこぼれ出る本音、
今更ながら叩きつけられる感情の嵐に晒され、立ち竦む一瞬。
そのどれにも深く頷くことができるのに、
この映画の世界のような老後は、「ありえん」と溜息がでる。

そうかもしれない

そうかもしれない

老いの愉楽―「老人文学」の魅力

老いの愉楽―「老人文学」の魅力



この映画のように、静謐な中に静かに沈殿するが如く人の一生は終わらない。
もっと泥臭く、雑音と汗と涙に満ちていると思う。
映画の世界は、ある理想を元に優しいまなざしで老夫婦の日常を描く。
しかし、現実は静かで動きが無いように見えて、澱が煮凝るように濁っていく。
私達は、その世界を掻き分けても生きていかなければならない。
本人達とその周囲の人間の葛藤に満ちている。
夫婦の在り方は人それぞれだが、誰もが迎える終焉、自分の死と、
それにまつわる諸々のことについては考えざるを得ない年齢になった。


もう「夭折した」なんて言われる年齢ではない所まで生きてきた。
その才を神に愛でられた為に、惜しまれつつもこの世を余りにも早く去る、
そんな才などに恵まれなかった凡人は、齷齪とこの世を生きて、
老いと老後を意識しながら毎日を過ごす。 「未だ明日の事を知らず」の日々。
夫婦水入らずという言葉を映画の中に見出し、 老後とはこういうものだろうかと考えてみる。


何しろ一緒に暮らす時間が殆ど無い生活、共働き、別居結婚、単身赴任。
相手のことをどれだけ知って暮らしているのか、わかったもんじゃない生活。
その中で、私が、家人が老いていく意味は何なのだろう。
幸いにして高齢出産でもたった一人の愛娘、子宝には恵まれたので、
映画の中の老夫婦とは状況は異なるが、 老いて娘の生活を脅かすようなことはしたくない、
そんなことにはなりたくないと思う。
同い年の人間が孫を持つ年に、子育てをしている私たち。


老親は映画の中と同じように、母だけが少しずつ壊れてきている。
まだら呆けの認知症の進み具合は予測が付かない。
全く別人のように不気味に感じられる時もあれば、
かつての母の片鱗が感じられ、何処も悪くないような錯覚に陥る事も。
恐らくそれを頼りに老父は共に暮らしているのだろうが、
映画の中と同じように、私たちに言いたくても言えない事、
伝えたくても伝えられない事、我慢している事は山ほどあるだろう。


ただ、私がいるから、子供や孫がいるから父は外へ出て行く。
人とも会うし、自分の為だけの時間も持てる。
『そうかもしれない』の作家のように、妻の生活能力の低下が、
二人の生活そのものを根本的に揺るがしているわけではない。
そんなふうに、映画の中の一挙手一投足を自分の生活、 両親の日常と
重ね合わせて見てしまう自分を見出す。 母の介護、両親の介護。
そして、自分たちの老後も。 老老介護、すぐ目の前の現実。
夫婦で老いていく、それだけではない、 片方がどうしようもなく壊れていく。
今までと同じ人ではなくなる。 それでも愛し続けることができるかどうか、
その覚悟を迫られているよう。


映画同様、日々少しずつ脆くなり欠けて行く母を見るにつけやるせない。
どうして女性の方が呆けていくのか。
何故、「きつい」「しっかりもの」と言われていた方が先に呆けるのか。
責任感が強く、プライドが高くて、そのくせ小心者で大胆な行動は出来ない。
一人でこつこつ仕事をして、負けず嫌いで、何でもできる。
仕事も料理も畑仕事も家事も、布団の綿入れもできる、着物も縫える、
編み物は勿論、洋裁だって当たり前、何でもできる母親を持って、
私は何にも出来ない不器用な娘に育ち、劣等感だけを募らせて嵩高く育った。


正論と理想と世間の物差しの三種の神器を携えて、絶えず叱咤激励の檄を飛ばす母。
どんなに重く重たくどうしようもないプレッシャーだったか、
思春期から中年まで、私の人生の上の超ど迫力の漬物石プレッシャーだった母。
その母が孫を得て、あっという間に呆けていく。
それほどまで、自分のDNAを確認できたのが嬉しかったのかと、
皮肉な思いにひねくれたくなるほど、何事につけて厳しかった母は豹変。
食事に菓子や果物を山のように出す、甘い祖母になった。
躾やその他の生活習慣で、迷惑以外の何物でもないおせっかい、
私から娘を引き離して横に置いて休みたがる日々、
その独占欲に辟易とする毎日が収束し始めた時が、呆け始めた時だった。


年を取ることは悪いことではない。 年を取る事の意味を前向きに考えろとよく言われる。
老いていくこと受け入れ、自分の死を思う。 それが当たり前の、「人としての在り方」だと、
そんな趣旨の講演を先月も聴いた。 しかし、あくまでもそれは理想。
老いと死を静かに受けいれていくには、修練がいる。 覚悟がいる。信念が必要。
・・・難しい。 心の問題ではなく、体の事を思うと更に素直な気持ちにはなれない。


目も見えにくくなり、これが老眼と愕然とさせられる。
時として思い違い、思い出せない些細なことが増え、
同じ本を2冊買っていたりしたことに気づく日には、がっくり。
こんなにも呆けたのか、記憶力が薄れたのかと。
読む気力も薄れ、積読が増え、読んだ事も忘れ、その繰り返し。
こんな毎日が来るとは思ってもいなかった。


幸か不幸か、映画の中のように「子供もいないのに」と詰られることは無いが、
「甥っ子の立場も考えて」だの「親戚の立場も」と言われることは余りなさそうだ。
それくらい、付き合いも希薄になってきている昨今、
きっと揉めるのは相続のことなんかなのだろう。
知らなかったが、母親(女親)が亡くなった時、相続に絡んで
子供としては戸籍謄本をずっと遡って調べなければならないらしい。
父親(男親)場合は自分が戸主だが、女性の場合は戸籍が変わるので、
財産分与の件でその戸籍に誰がいるのか、銀行側等が提出を求めてくるのだそう。
今まで住んでいた場所を頼りに、あちらこちらに依頼を出して、
書類を調えるのが大変なんだと、先月ご母堂を亡くされた同僚の言葉。
相も変らぬ差別、女性だけに不利な戸籍、何と世知辛いことか。


老いは穏やかにはやって来ない。受け入れるのは難しい。
気力体力があるうちは迎え撃つものだという気がしてならない。
そんな哀しい確信だけが、映画を見た後に余韻を引いて胸に残る。
そしてそんな思いに囚われる自分に疲れる深夜。

日本文学と老い (叢刊・日本の文学 19)

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生きつづけるということ―文学にみる病いと老い

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